2012年12月6日

瞑想の知識・・・

グナラタナ長老 

瞑想に関する知識を何も学ばずに、ただ瞑想だけしたい と言う人がときどきいます。
理論的な知識は瞑想の妨げになる と考えているのです。

このような人を、「旅行者」に譬えることができます。
仮に、ワシントンD.C.に行くとしましょう。
旅行者は自信たっぷりで、目的地に着く自信さえあればそれで十分だと考えています。
この人は 車を持っています。車に乗り、ハンドルに向かって座り、運転を始めます。
でも、旅行の準備がありません。
道路や道路の状況、天候については何も知らないのです。
地図の用意もありません。
あるのは、車と 運転の自信、そしていくらかの経験だけです。
車には ガソリンやオイル、他の部品は十分にあります。
長い時間、体力と時間、ガソリンを費やして道路を走ります。
運転をしていれば、実際どこかに到着するでしょう。
でも、そこは目的地(ワシントンD.C.)とはかぎらないのです。

これとは違い、智慧のある旅行者は、
地図を詳しく調べたり、(必要ならば)まわり道をしたり、自分よりも経験のある人に聞いたりもします。旅行者がワシントンD.C.に行きたくて、ワシントンD.C.という場所が実際にあるなら、旅行者はその場所に辿り着けるでしょう。

同様に、瞑想するときにも 目的地が必要です。
それから、多くの哲学的、推論的な理論は必ずしも必要ありませんが、ガイドラインは いくらか必要です。
ガイドラインとは、道を進むための標識であり、それがあれば 推測ではなく、正しい方向に進んでいるかどうかを知ることができます。

確かに自信は必要ですが、自信だけでは十分ではありません。
理論的な知識を持ち、理解することも必要なのです。

2012年11月20日

Turkeys

Photo: Woodstock animal sanctuary


Turkeys are sensitive, social individuals, and in conditions where they are permitted to thrive, they are seen for the complex, adaptive, and intelligent animals that they are. Turkey hens are devoted mothers who care diligently for their young, with broods staying together for 4-5 months and male siblings maintaining a social bond for life.

~ Young turkeys under four weeks of age, known as poult
s, learn crucial survival skills and information from their mother, including what to eat, how to avoid predators, the geographical layout of the home range, and important social behaviors.

~ During the day, the birds forage together in brush, fields, and wooded expanses, using their beaks to explore and to locate food; by night, they roost high in trees, safe from predators. The size of a broods’ home range varies, but can be as large as 500 acres.


And did you know?

Turkeys like to have breakfast and dinner as a family. Turkeys have two major feeding times, one during mid-morning, the other mid-afternoon. Family groups often meet to enjoy their meal together.

A mother turkey is very protective of her young, and will risk her life to save her babies. If she feels threatened, she may freeze or sound a cry of warning to her young, instructing them to take cover. She may also attack or pretend that she is hurt to draw the predator’s attention away from her offspring.

Turkeys love to be petted. They will sit happily for long periods having their feathers stroked, and some even purr.

The turkey was almost selected as the United States national bird. Benjamin Franklin proposed the bird to be the proud symbol of the United States.

Turkeys like to listen to music, especially classical. In fact, they like it so much that they will often cluck and gobble in a manner that can only be described as singing along.

It is difficult to sneak up on a turkey. They have excellent vision and a wide visual field of about 270 degrees. They also have great hearing-but no external ears.

Males love to feel noticed and admired. Toms on sanctuaries are known to follow busy human caretakers from chore to chore, standing off to the side, puffing out their feathers in full display, quietly and patiently waiting for the prospect of attention.

On industrial farms, turkeys never know the comfort of a natural environment or the satisfaction of instinctual behaviors. In natural conditions, baby turkeys would stay with their mothers for up to five months, but turkeys on commercial farms never experience the safety or warmth of the nurturing presence they instinctually long for. Instead, they endure confinement, crowding, disease, abuse, and a short life of intense suffering that ends in brutality. Between 250 and 300 million turkeys are raised for slaughter every year in the U.S. – more than 46 million are slaughtered for Thanksgiving alone.

Woodstock animal farm sanctuary, Woodstock, N.Y.

2012年9月1日

『マインドフルネス』-気づきの瞑想


マインドフルネス 
本書が最初に出版されてから 20年が経ちました。
そのあいだに 「気づき」(マインドフルネス)ということが、
現代の社会や文化の多くの領域――
教育、心理療法、芸術、ヨーガ、医療、
急速に進歩する脳科学などの分野に、
ますます影響を与えています。
そして、ますます多くの人々が、
さまざまな理由で――
ストレスを軽減させるためや
心身の健康増進のため、
人間関係、仕事など、
人生のあらゆる面において、
有意義に生きるために、
「気づき」を求めています。
本書をお読みなる目的がいかなるものであれ、
皆さんが幸せな道への指針を見いだせますことを、
心より願っております。
バンテ・H・グナラタナ


世界で読みつがれるヴィパッサナー瞑想の最良入門書

マインドフルネス(ヴィパッサナー、気づきの瞑想)の実践入門書として、
米国で出版以来20年以上にわたり読みつがれ、
世界15カ国で翻訳されているロングセラー。
仏教の知識がなくともわかる平易な言葉で、
ヴィパッサナーを実践するために必要な情報を余すところなく伝え、
確かな評価を得ている。
ラリー・ローゼンバーグ(『呼吸による癒し』著者)や、
ジョン・カバット・ジン(マサチューセッツ大学医学部名誉教授)など
多くの瞑想指導者、医師、実践者が絶賛してやまない名著。
本書は、2011年に発行された最新エディションの日本語版である。

アルボムッレ・スマナサーラ長老より



世界の瞑想指導者たちのトップリーダーが語る、
気づきの実践方法です。
西洋人に語りかけたこの本は、
瞑想に興味のある方々に刺激を与えるに違いありません。
著者は気づきの実践について一流の研究者でもあります。

もっと見る ⇒ こちら

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マインドフルネス -気づきの瞑想
著者:バンテ・ヘーネポラ・グナラタナ 

2012年  9月1日 1刷発行
2016年10月1日   8刷発行


2012年8月2日

慈しみ


慈悲の瞑想をすると、心も身体も自然にリラックスします。
そして煩悩は少しずつ消えていきます。眠気や睡魔は「注意深さ」に換わり、曖昧さや優柔不断は「確信」に換わります。
怒りや憎しみは、「やさしさ」に換わり、不安や悩みは「幸せ」に換わります。そして潜在意識に埋もれていた慈しみが表面にあらわれ、それによって私たちは、より穏やかで、幸せになるのです。

この状態の中、心は落ち着きを得て、欲を乗り越えることができます。
そして「慈しみは怒りを消し、心を育てる」こと、「怒りが消えれば、気づきの実践がしやすくなる」こと
を理解することができるでしょう。

慈悲と気づきはいっしょに働きます。その結果、禅定(心の統一)と智慧が生じます。
ですから、気づきを実践し、心を上手に調整しながら、慈悲を育てていくことが大切なのです。

グナラタナ長老

2012年7月4日

自利と利他


智慧と善行為(6)
スマナサーラ長老 法話


善行為には二種類あります。
一つは、他人を助けることです。これは世の中の誰もが善い行為と見なしています。
では、自分のために何かやることは悪いことでしょうか? 
悪くありません。私たちは自分の幸福のためにいろいろなことをやる必要があるのです。

では、「自分のために善いことをする」ことと「他人のために善いことをする」ことと、どちらが善いことだと思いますか? 

それは判断できません。自分のことはおいておいて他人のためにやることが善行為であり菩薩行だという考えもありますが、あれは間違いです。結局、この二つを区別することはできないのです。

たとえば、若者たちがみんなおとなしく、自分のためだけにビシビシ勉強するとしましょう。ボランティアなど社会的な善い活動はしませんが、悪いことも何もしません。それで社会が悪くなると思いますか? 社会全体が明るくなるでしょう。私が私のためにまじめに勉強することは、自分のための自利の行為ですが、それで社会も豊かになるのです。
仕事の場合も同じです。自分の仕事をしっかりおこなうこと、これは自利の行為ではありますが、結局は社会全体の繁栄につながるのです。

一人で静かに冥想したり、修行したり、戒律を守ったりすることは、他人や社会には関係がないことですが、そうやって立派な人間でいるだけでも、社会にとても善い影響を与えています。ですから、善行為は自利でも利他でもどちらでもよいのです。

あるいは、私が千円しか持っていません。その千円でごはんを食べようと外に出ました。その途中、たまたま道路で義捐金を集めている人たちに出くわし、持っていた千円を寄付しました。ごはんを食べようと思っていたのに、ごはんが食べられなくなりました。これは自分を犠牲にしたことですが、私は喜びを感じているのです。「善い行為をしました、よかった、よかった」と楽しい気分になっているのです。千円でごはんを食べたら、それほど長持ちする楽しみは得られないでしょう。

このように、他人のためにやった行為でも、その結果は自分に返ってきます。ですから、自利と利他は区別することができません。区別すること自体が間違いです。善行為をすることによって人格が向上しますし、また社会のためにもなるのです。


問題は心


それから、行為は闇雲におこなうものではありません。すべての行為は意志でやっていますから、意志が汚れると行為も汚れます。たとえば十万円を誰かにあげたとしても、もし汚れた心であげたなら、善い結果にはなりません。十万円あげただけでは、善い行為にはならないのです。十万円を貰った人が、そのお金で麻薬を買ったり何か悪い行為をしたりすることを知りながらあげたならば、あげた人は罪を犯したことになるのです。義捐金として十万円を寄付することとは大きく異なります。ですから同じ「十万円をあげる」という行為でも、その人の意志で、善行為にもなりますし、悪行為にもなるのです。

社会では「怒りは悪い行為」と決まっていますが、親・教師・コーチなどはよく怒ります。その方々は、相手のことを嫌って怒っているのではありません。「育てたい」「一人前にしてあげたい」という意志が強いのです。やさしい顔を見せたら成長しないだろうと思っているのです。


ですから、親や先生の怒りは悪行為だと決めることはできません。親が怖かったから、先生が怖かったから、という理由で立派な大人になった人々は大勢います。子どもが貪・瞋・痴の感情で弱くなっていて、貪・瞋・痴と闘う気力も失っている場合、親や先生はその子を怒鳴ったり脅したりしなくてはいけないのです。そうしないと、その子は感情に負けて堕落してしまいますから。
親や先生のその行為は表面的には悪行為として見えるでしょうが、心は善い意志が働いているので、善行為になるのです。

しかし、「善意なら怒っても脅してもいい」と決め付けるのは早計です。怒らなくても脅さなくても、人々を育てる方法がいろいろあります。それには理性と判断能力が必要です。仏教はこの問題を「優しい、厳しい」という言葉で解決します。お釈迦様は人を育てるとき、四つの態度をとられましたた。
 ・やさしくする ・厳しくする ・やさしくしたり厳しくしたりする ・完全に無視する 

育つ見込みがまったく無い場合は、その人に余計な迷惑をかけないで無視します。弟子入りを認めないのです。


人にたいして厳しい態度をとることは、必ずしも悪行為にはなりません。悪意で厳しい態度をとることは、悪行為に決まっています。悪意で他人にやさしく振る舞うことも、立派な悪行為です。ですから、意志に注意しましょう。意志は常に善であるように戒めることです。

「意志が常に善であるように」と言われると、「それは無理。できるわけがない」という気持ちになるに違いありません。お釈迦様は、子どもからお年寄りまで誰にでも、簡単に、四六時中、意志を善に保つ方法を教えられました。

それは「生きとし生けるものが幸せでありますように」という気持ちです。この言葉を常に念じて生きることです。「私は他の人々のおかげで生きているのだから、社会にたいして恩返しをしなければなりません」という気持ちでおこなう善行為は、すばらしい善行為になりますし、智慧も現れてくるのです。

(了)


2012年6月24日

善悪の行為は意志で決まる


智慧と善行為(5)
 スマナサーラ長老 法話


 生きるとは行為をすることです。行為は、どんな行為であれ、意志(心)がないと起こりません。食べたいという意志がなければ、食べる行為はありません。呼吸をするときも、ずっと意志が生まれ続けています。息を吐き終わった瞬間に息を吸っていますが、そこにも意志が働いています。すべての行為は意志でおこなっているのです。
 生きることは行為をすることです。そして行為はすべて意志から生まれます。立ちたいという意志がなければ立ちませんし、話したいという意志がなければ話しませんし、歩きたいという意志がなければ歩きません。

 それから、意識的にわかる意志もありますし、わからない意志もあります。呼吸をする場合は明確で、意識して呼吸をすることもできますし、意識しなくても呼吸はしています。意識する・しないかにかかわらず、意志はいつでも働いているのです。

 心臓も同じです。意志が働かないと心臓は動きません。でも私たちがいちいち意識して「はい膨らみましょう、次は縮みましょう」などと考えていると生きていられませんから、そこはオートモードになっています。意識的にわからないだけで、本当は意志が管理しているのです。
たとえば、何か怖いことが起こると心臓はどうなるでしょうか? ドクンドクンとするでしょう。意志が管理しているからです。

 すべての細胞の動きは、意志がやっています。また、その行為は心と身体に影響を与えます。心と身体に善い影響を与えたいと思うならば、当然、善い意志で善い行為をしなくてはいけないのです。

 しかし、生命はもともと心が汚れていますので、自然に悪い意志を起こして、悪い結果を出す行為を簡単におこなっています。
 一般的に、「善行為に善果・悪行為に悪果」と言われていますが、お釈迦様がおっしゃっているのは、「善い意志でおこなう行為に善い結果。悪い意志でおこなう行為に悪い結果」という言葉です。行為そのものよりも、「意志」に注意したほうがよいのです。

 たとえば、義捐金として、ホームレスの人が千円寄付し、大企業の社長が一千万円を寄付したとしましょう。ではどちらの善行為が、より価値の高いものになるのでしょうか?
 この判断は、「善行為をしたい」という意志によって決めなくてはいけないのです。ホームレスの人の千円は、もしかするとその人の全財産かもしれません。ごはんも食べられなくなるかもしれません。ですから、寄附行為をするときは、強い意志が必要だと言えるのです。
 大企業の社長の場合は、全財産ではないのです。家計が苦しくなることも、飛行機に乗るお金が無くなることもないでしょう。ですから、それほど強い意志が必要ではないのです。
 金額は千円かもしれませんが、「全財産」をあげたホームレスのほうが善行為の価値が高くなるのです。行為の結果は表面的な形ではなく、内面的な意志によって決められるものなのです。

 したがって、派手な行為が善い行為というわけではありません。ニュースや新聞に載るか載らないか、そんなもので徳の大きさが決まるのではありません。自分の意志で決まるのです。


貪瞋痴の汚れ


 意志は重要な働きです。どんな行為も意志から生まれています。問題は、私たちの「意志が汚れている」ということです。人に会うときには、きれいな服を着てかっこよく見せたいでしょうし、ごはんを食べるときは、よりおいしいものが食べたいでしょう。欲しいものを買う場合は、できるだけ値段が安いものがいいですから店員さんに値切ったりもするでしょう。
 私たちには常に意志が働いていますが、その意志は貪瞋痴で汚れています。貪は欲、瞋は怒り、痴は無知です。意志が汚れていますから、私たちの行為はほとんど悪行為になります。貪瞋痴で生きているかぎり、行為はすべて悪行為になるのです。


貪瞋痴のブレーキ


 皆様も経験があると思いますが、善い行為をしようとすると、心にちょっとブレーキがかかるということが起こります。あのブレーキはなんでしょうか? たとえばお年寄りの方が電車に乗ってくると若者はタヌキ寝入りしますよと若者に悪口を言うでしょう。私はそう思っていません。日本の若者はそんなに悪くないんです。ではなぜタヌキ寝入りするのでしょうか? 

 どこかでブレーキがかかるのです。「どうぞ座ってください」と言えないのです。ポイントはそこです。あれが貪瞋痴です。他の人が見ていますし、もし「結構です」と断られたら恥ずかしくて立場がないですし、あるいは譲っても座らないでしょうとか、自分も疲れているからこのまま座っていてもいいんじゃないかとか、いろいろ理屈をつくって席を譲らないだけです。お年寄りなんか知ったことじゃないよ、とそんな気持ちはありませんし、別に悪い人ではないのです。でも善行為はしません。それは貪瞋痴がブレーキをかけているからなのです。

 そこで、東日本大震災のような大災害が起こると、もうブレーキがかけられない状態になって、みんな一斉にワーッと善いことをし始めるのです。ブレーキはもう機能しません。

 普段はすぐにブレーキをかけます。何か善い行為をしようとすると、恥ずかしくてどこかでためらってしまうということがあるのです。このためらう気持ちが貪瞋痴です。

 そこで「善行為をするたびに、自分の貪瞋痴を戒めている」ということを憶えておいてください。善行為をすることで、自我がなくなって、恥ずかしさも消えて、花が咲いたように明るくなります。お年寄りの方が電車に乗って来たら、「どうぞどうぞ座ってください」とサッと席を譲ることもできます。声をかけたところで相手の方に「次の駅で降りますから」と断られたら、「そのあいだだけでもどうぞ」と、すごく明るく言ったり、あるいは「私は立ちたくてたまらなかったんです」などと言うと、お年寄りの方も「若いのに、いい方ですね」と楽しくなります。お互い、すごくやさしい世界が生まれます。それで電車に乗っていた五分間は最高に幸福な五分間になるのです。

 そういうわけで、貪瞋痴を戒めなくてはなりません。そのために善行為をする。善行為をすると、智慧が現れてくるのです。

(続きます)



2012年5月1日

慈しみ

生きとし生けるものが、
健康で、幸福で、安穏でありますように。

危害がありませんように。

困難がありませんように。

問題が起こりませんように。

願いごとが叶えられますように。

避けることのできない困難や問題に出あったとき、
忍耐、勇気、理解、決意をもって、乗り越えられますように。

マインドフルネス -気づきの瞑想
バンテ・H・グナラタナ(著)より


2012年4月26日

気づくこと

ヴィパッサナー瞑想とは、気づきの実践です。
今起きていることに、気づくことです。

もし 何かに夢中になっていて、
それをやめることができないなら、
それに「気づく」ようにしてください。
それも、自分です。

「気づく」ことによって、
私たちは自己を発見する旅に
一歩前進することができるのです。

グナラタナ長老


2012年3月17日

智慧と善行為(4)

 スマナサーラ長老 法話


 「生きる」ということは「行為をする」ということです。そして、その諸々の行為は互いにネットワークをつくって働かなくてはなりません。行為というものは、いつでもそのように働いているのです。

 私たち一人一人は、社会ではたいしたことをやっていません。会社で仕事をしていても、一人一人は本当につまらないちっぽけなことしかやっていないのです。でも全体的に見ますと、社員が互いに調和して仕事をすることによって、会社という大きなシステムができあがっているのです。

 たとえば航空会社は大規模な会社ですが、一人一人を見ますと、それぞれはほんの小さな仕事しかやっていません。機内の乗務員さんたちがやっていることは何かというと、ドアを開けたり閉めたりするとか、アナウンスをするとか、飲み物や食べ物を配るとか、お客さんがシートベルトを締めているかチェックするとか、その程度のことです。ものすごくつまらない仕事でしょう。でも、その仕事がないと全体が壊れてしまうのです。
 もし乗務員さんがいなかったら、お客さんは勝手に座って足をあげたり、俺は恐くないからシートベルトはしないぞと言って立ち歩いたり――。そんな勝手なことをすると、大変危険です。ですから乗務員さんはとても大切な仕事をしているのです。
 それから飛行機から全員降りたところで、今度は清掃員さんたちが乗ってきます。サッと掃除をして機内をきれいにし、忘れ物でもあったら所定のところに届けます。これもつまらない仕事ですが、全体的に見ますと、なくてはならない仕事なのです。

 同様に、私たちの身体の内部でも一個一個の臓器が働いていますが、それぞれはたいした仕事はやっていません。でも全体的なネットワークになりますと、それぞれが欠かせない仕事をしているのです。

 たとえば心臓は収縮と拡張の動きをただ単調にくり返すだけのポンプの働きで、本当につまらない仕事しかしていません。でも全体的に見ますと、全身に血液を送りこむという命に直接係わる大変重大な仕事をしているのです。

 そういうことで、つまらないことだと思われる行為でも、システム全体からみると欠かせない役割を果たしていることがわかります。

 それで、会社であれ、社会全体であれ、この一個の身体であれ、一つ一つの行為が全体的なシステムを支えているということが理解できます。

 個人の人生のみならず、社会全体が調和して平和に繁栄しつつ生き続けるためには、私たちは自分に与えられている小さくてつまらない行為を大事に行わなくてはいけないのです。善行為とはこのようなものだと理解してください。

 会社でつまらない仕事を割り当てられても、なんでこんなくだらない仕事をやらなくちゃいけないのかと考えて仕事をさぼったり、腹を立てたり、いい加減にやったりすると、それは明らかに悪行為になります。家庭でも同じことが言えます。社会全体の調和と繁栄を壊す行為は、当然、悪行為なのです。

 人生は善行為をするか悪行為をするかということで成り立っていて、「善行為をすべき」ということは言うまでもありません。善行為をすると、人生はうまくいきますし、他との調和もきちんと保たれるのです。 
 
(続きます)

文責:yoshiko demura




2012年3月3日

智慧と善行為(3)

スマナサーラ長老 法話


調和し、補い合い、協力する


最初に、二つ問題を出します。一番目の問題は、善行為・悪行為というのは本当に世の中にあるのでしょうか? ということです。
皆さまはおそらく考えたことがないと思います。この答えはいったん置いておいて、次の問題にうつります。
「生きる」とは、どういうことでしょうか?

生きている上での行為です。生きている人が善行為や悪行為をするのですから、「生きている」ということが一番大事になります。
「生きている」ということを忘れてはなりません。世の中の人々はそこを忘れているようです。それでさまざまな犯罪が現れてくるのです。

「生きている」ことが土台であって、その土台を壊すべきではありません。土台を壊すことは、明らかに愚かな行為でしょう。これは、立派な家を建てて、そのあと家の下から穴を開けて土台を壊すようなものです。土台を壊すと、建物全体が崩壊します。それでは話になりません。

私たちは何をやるにしても、まず「生きている」のです。シンプルに聞こえるかもしれませんが、これはとても大事なことです。生きているから話します。何を話すかというのは、後の話で、生きていなければ話すという行為もありません。善行為も悪行為もないのです。


「生きる」ことの中身


そこで、「生きるとは何か」ということをまず考える必要があります。でも、むずかしく考えたら困ります。世界の誰にもその答えを見つけることはできませんでした。お釈迦様以外、誰にもできなかったのです。

「生きる」ということは「行為をする」ということです。私たちは無数にさまざまな行為をしています。意識的であろうが無意識的であろうが、さまざまな行為をしているのです。
呼吸をする、生きているからです。体内に血液が流れる、生きているからです。生きていなければ、そんな行為はありません。
見る、聞く、話す、すべてが行為です。座る、歩く、食べる、寝る、考える、呼吸する、大小便する、運動する、働く、休む、いろんなことをやっています。これらは全部、生きているからやっていることです。

「生きる」ことの中身を見てみると、「行為」しかないのです。行為以外は何もありません。

ですから、「生きる」ということの箱を開けて、その中身を見てみる必要があるのです。
私たちは箱のふたを開けないで、「命は神様から授かったものだ」とか「尊い魂だ」などと言っています。
箱を開けないでいて、箱の周りでいろいろな意見を言っても、それはまったく意味がないのです。

そこで、箱のふたを開けてみます。そうすれば一発で中身がわかるでしょう。もう推測する必要も議論する必要もありません。

お釈迦様は「生きる」という箱のふたを開けてみたのです。開けてみたら、すべて行為のみ。呼吸することも行為ですし、考えることも行為、見ることも行為、聞くことも行為です。私たちはそれに「生きる」と言っているのです。血液が流れることも行為ですし、細胞一個一個がいろんな行為や働きをしています。その働きが止まったら「死」です。

ですから「生きる=行為」です。たくさんの行為があるでしょう。行為をするのは、生きているからなのです。


その行為は善か悪か?


次に、行為は善か悪か、ということを判断しなければなりません。

判断は簡単です。生きることを破壊する行為は悪行為です。
たとえば、「生きる」というシステムの中で一個の組織、あるいは一個の細胞だけが調和を乱して勝手に反対の行為をするとしましょう。どうなるでしょうか? 

全体が徐々に壊れていくのです。生命は「生きる」という行為の箱の中で、呼吸をしたり、食べたり、消化したりなど、さまざまな行為をしています。あらゆる行為が互いに調和して支え合い、補い合って働いているのです。

どんな細胞にも酸素が必要です。もしすべての細胞が酸素を探しにどこかへ勝手に行ってしまったらどうなるでしょうか? 
困ります。身体に細胞がいなくなってしまいますから、身体全体が機能しなくなってしまうのです。

細胞にはそれぞれ仕事があって、それぞれ別々の役割を担っています。たとえば、肺は酸素をとり込んで二酸化炭素を排出するという働きがあります。そこで調和して仕事をしているのです。

肺には酸素が入りますが、その酸素を身体中に運ぶものが必要になります。その役割を、血液が担うのです。細胞が生きるためには栄養素も必要です。もし細胞が「お腹がすいたからどこかへ食べに行くぞ」と言って、勝手に自分の持ち場を離れてしまったら、話にならないでしょう。何かが栄養素を運んであげなければなりません。そこで、運送屋の血液が栄養素も運ぶのです。

では、廃棄物はどうしますか? それも血液が排出器官まで運んでくれます。このように血液はものの見事に酸素や栄養素を運び、いらないゴミは体外へと運んでくれるのです。

もし、この血液がストを起こしたらどうなるでしょうか? 仕事しなかったら? 自分の仕事をストップした時点で、そちらの細胞は壊死してしまうのです。

これでおわかりになると思いますが、身体の中の行為がお互いに調和して、補い合って、協力し合って働いている場合、私たちは何のことなく健康で無事に生きていることができます。
このシステムにちょこちょこと異常が起きてしまうと、健康は崩れてしまうのです。

正常な細胞には、寿命というものがあります。自分の役割を終えたら死滅し、新しい細胞と入れ替わるのです。

しかし、ときどき新しい細胞が次から次へと生まれる場合もあります。古い細胞と入れ替わるためではなく、勝手にどんどん増え続けるのです。これが「がん細胞」と言われるものです。がん細胞のほとんどは、死滅することなく激しいスピードで増殖を繰り返していくのです。

「成長する」ということは一般的に悪いことではありませんが、がん細胞が成長するのは困ります。なぜかというと、がん細胞は他の細胞と調和していないからです。

たとえばケガをしたとき、その傷口では新しい細胞がすごい勢いでできあがって、みるみるうちに傷口を補ってくれます。それはすごい速さです。それから、ストップします。傷口がきれいに治ったところで、ストップするのです。そこに調和があります。

もし新しい細胞が生まれるは生まれるは、きりがなく生まれて止まらなかったら、でっかいデキモノができます。これを「がん」と言うのです。


調和することは善行為


「生きる」ということは「行為をする」ことで、その行為は互いにネットワークをつくって、調和し、補い合い、協力し合って働くということが決まっています。
そうでなければ、生命は壊れてしまいます。そこで、「善行為・悪行為」ということが成り立つのです。これが、最初に出した質問「善行為・悪行為は本当にありますか?」の答えです。

善行為・悪行為は本当にあります。成り立ちます。
生きることは行為をすることであり、その諸々の行為が調和して働いている場合は「善行為」、調和していない場合は「悪行為」なのです。

私たちは毎日ごはんを食べなければなりませんが、何を、どれぐらい、どのように食べればよいのでしょうか? 

ちゃんと調和して食べなければならないのです。もし「今日は腹いっぱいお肉を食べよう!」と、食べ過ぎて具合が悪くなって病気になった。これは悪行為です。調和を壊してしまったのです。
また、おいしいからといってチョコレートやケーキなど甘いものばかり食べていると、調和が崩れて糖尿病などの病気になります。ですから、欲張って食べることは悪行為です。

仏教は結構厳しいのです。皆さまは、大胆に他の人々を助けることだけが善行為だと思っているかもしれませんが、食事の量を適量に抑えることも善行為です。食べ物を身体に適量摂ることで、身体はうまく調和を保って働くことができます。これが善行為です。多食や偏食は悪行為なのです。

この「調和を保つことは善行為である」ということを理解することが、智慧です。ですから、世の中でやっている大胆な善い行為だけが善行為ではありません。どこかの施設にいる子供たちに匿名でランドセルを50個送った、というのは当然善い行為ですが、善行為はそれだけではないのです。

では、その人の行為が私たちにとって派手に大きく見えるのはなぜでしょうか? 

それは、私たちがあまりにもお金にべったり執着しているからです。本当は他人に1000円もあげたくないほどケチなのです。
それで「誰かがランドセルを50個も送った」と聞くと、びっくりしてニュースになり、派手に大げさにそれを報道する。
寄付した側からすれば、自分にはお金がちょっと余分にあるから子供たちに何か買ってあげたほうがいいんじゃないか、とそのぐらいの気持ちでやったことだと思いますが。

善行為は、大胆な行為だけではありません。自分の身体に必要な量だけ食べること、これも善行為です。反対に、必要な量よりも多く食べたなら、それは悪行為なのです。

(続きます)

文責:yoshiko demura




2012年2月24日

智慧と善行為(2)

スマナサーラ長老 法話

智慧のある人とは


 善い人か悪い人か、智慧のある人か愚か者か、ということは、「生命にたいしてどれぐらい慈しみの行為をするか」というところで測られます。
 どんな大学を出たかではありません。博士号を三つも持っているとか、肩書きはどうでもよいのです。大学を卒業していなくても、大勢の人々のために役立つ活動をする人はいくらでもいますから。

 共に生きている仲間をどれぐらい助けてあげるか、人々の生活をどれぐらい楽にしてあげるか、人々の苦しみをどれぐらい減らそうと頑張っているか、このように自分のことを後回しにして頑張る人というのは、当然立派な人です。その人のことを「智慧のある人」というのです。

 定義は簡単です。「慈しみのある人が智慧のある人で、慈しみのない人が愚か者」ということです。

 世の中で犯罪を起こす人たちも、当然、俗世間の知識はあります。知識がなければ、テロ行為はできないでしょう。高度な知識がなければ、計画をたてたり組織をまとめたりすることはできないのです。

 愚か者か智慧のある人かということは、一般世界ではいろいろな定義があるでしょうが、仏教では「慈しみがあるか否か」というところで測ります。

 生命を慈しむ人が、智慧のある人です。何の差別もなく、民族的にも、宗教的にも、経済的にも、何の差別もしないで、とにかく生命を慈しむ、それこそが立派な人間なのです。


善行為の目的


 「善行為」ということについて、どの宗教でも、一般社会でも、「善行為をしましょう」と言っています。仏教でも「善行為をしましょう」と言っています。しかし、仏教の場合はちょっと違います。「智慧を開発しなければ意味がない」と言うのです。
 いわゆる、いくら善行為をしても、やっただけでは意味がありません。
 何かをやるならば、何らかの目的が必要ですし、その目的に達しなければならないのです。
 たとえば飛行機でハワイへ行って、次の便で日本に戻って来たとしましょう。それで「私はハワイに行って来た」と言う。
 でも、それでは何のためにハワイに行ったのかわかりません。意味がないのです。
 ハワイに行くなら、何か目的があるはずです。ビジネスで行くのか、観光で行くのか、どこを訪問するのか、何を見るのか、どんな遊びをするのか、そこで計画をたてて行って、行った目的を達成したなら、その人には「私はハワイに行って来た」と言えるのです。飛行機に乗って往復しただけでは何の意味もありません。

 同様に、善行為をしただけではあまり意味がありません。何か目的を設定して、その目的に達しなければ意味がないのです。
 仏教が設定する目的は、「智慧を開発すること」です。
 もし、善行為をしたけれども智慧は何も開発しなかった、というならば、「ご苦労様」ということで終わってしまうのです。

 (続きます)

文責 : yoshiko demura


2012年2月18日

智慧と善行為(1)

スマナサーラ長老 法話

智慧が開発するか否か


 善行為って何でしょうか? 
 社会では「善行為をしましょう」ということは当たり前になっています。
 仏教でも、そのように言っていますが、仏教では善行為のことは、そんなに大げさにしていません。
 一番ポイントにしているのは「智慧が開発するか否か」ということです。
 仏教の教えは「智慧の教え」ですから、「智慧」のことばかり教えています。他にも道徳など教えは大量にありますが、智慧が一番上にあって、他の教えは飾りのようなものです。智慧が王冠です。智慧があれば、他のものはいっしょに付いてくるのです。

 なぜ、智慧が一番大事なのかといえば、これには理由があります。
 「智慧が無い」ということは「無知」ということです。無知で幸せになるということはありませんし、無知だから成功したということもありません。
 お釈迦様は、「災難や危害、苦難などの不幸というものはすべて無知、あるいは愚か者から生じるのであって、智者からはいかなる苦しみも起こりません」とおっしゃっています。
 ですから、この世の中で何か不幸なことや理不尽なこと、不公平なこと、人々に不幸を招くことが起こったならば、その手綱を握っているのはいつでも誰か愚か者なのです。

 世の中には危険なことがたくさんあります。テロ行為や戦争、暗殺、人殺しなどがありますし、強盗や詐欺、ごまかしなどもあります。いろいろな恐ろしいことがあります。きりがありません。そこで不公平なことや災難、苦難に陥る出来事があったならば、それは必ず無知な人の仕業なのです。

 では、そうした無知な人たちは知識がない愚か者なのでしょうか? たとえば綿密な計画をたててテロ行為をする人たちはバカでしょうか? 実は、彼らは結構勉強している優秀なエンジニアや科学者たちです。貧乏人でもありません。豊かで、勉強している知識人たちです。ですから、本当に愚か者でしょうかという疑問がでてきます。

 仏教では、大学で知識を学んだから、有名大学を卒業したからといって、智慧のある人だとは言いません。「やっている行為は何ですか」というところを見るのです。
 智慧というのは、科学や工学、経済学などの知識を学んで得られるものではありません。知識を得ても、愚かなままなのです。

 どこで愚かと決めるかといいますと、「生命にたいして慈しみがない、どうなってもいい」と生命のことを心配しない人のことを、「愚か者」というのです。

 たとえば原子爆弾を開発して、さらに高性能のものを開発した科学者たちは、私たち凡人よりはずいぶん勉強ができる知識人たちでしょう。彼らは一流の大学を卒業した人たちばかりですが、実際は極限的な愚か者です。なぜなら、人類に多大な危害をもたらしているのだから。彼らに関心があるのは、自分の研究だけで、研究データが出るか出ないか、それだけに関心があるようです。放射性物質があちこちに拡散したとき、言うことは「では、放射性物質がどのように人体に悪影響を与えるかを調べましょう」と、それだけ。「人類に多大な危害を及ぼすこんな恐ろしいものをつくってはいけない」とは言わないのです。

 ですから、大学の研究室でずっと研究しているからといって、肩書きが一メートルぐらいあるからといって、その人が智慧のある人だと絶対に思わないでください。
 生命のことを心配するか、生命のために何か役立つことをするか、人類の模範になるような人物か、若者たちがモデルにした方がいい人間か、必要なのはこうしたことなのです。

 (続きます)

文責 : yoshiko demura

2012年2月11日

慈しみの心(2)

 ダンマジョーティ長老 法話

 仏教は「五力」ということを教えています。
 今日は時間があまりありませんので、詳細までは説明できませんが、一つのポイントだけご説明いたします。

 「五力」とは、覚りに必要な五つの力のことで、信・精進・念・定・慧です。
 五つのうち、「信」(確信)と「慧」(智慧)はバランスをとらなければなりません。もし「信」だけが強くて「慧」がなければ、迷信(妄信)に陥ってしまいます。

 現代のテーラワーダ仏教徒は、「信」はあまり必要ないと考える人が結構います。そして、「仏教は徹底的に科学的な教えであり、他の宗教とは違う。仏教は「信」を必要としない」などと言って、仏教は一番優れている、と主張します。現代のテーラワーダ仏教徒はこのように言ってお釈迦様の教えを教えている人が多いのではないかと私は思います。

 しかし、「信」は大事なものです。パーリ語でsaddhāと言い、サンスクリット語でśraddhāといいます。

 仏教でも他の宗教でも、心なしに、ただ頭だけで教えを理解するなら、そこには心が関係していませんから、宗教とは言えません。心が関係していないとなりません。

 たとえば、お釈迦様に礼拝するとします。そのとき、「やらなければならないからお釈迦様に礼拝する」とか「仏教のしきたりだから礼拝しなければならない」と考えるのは、頭での理解のレベルです。

 そうではなく、心で感じて、感情のレベルで礼拝することが大事です。「お釈迦様は広大無辺の慈悲があり、生命が達することのできる最高のレベルまで心を清らかにした偉大なる方だ」などと本当に心で感じることができるなら、そのときは自分が自ずと謙虚になり、自然に礼拝するでしょう。他人に言われて礼拝するのではありません。

 単なる知識のみで、「この教えは論理的で、いい教えだ」と考えて勉強するだけでは、実践しようとする気持ちは起こらないでしょうし、人生も幸福にならないでしょう。
 そうではなく、心で感じるなら、内面から刺激され、実践しようとする気持ちになります。

 どんな経典でも、どんな教えでも、たとえそれらが論理的に正しく、非常に深い哲学であったとしても、もし心で理解しなければ、意味がありません。心で理解したとき、「幸福の道を歩もう、実践しよう」という気持ちが起こるのです。感情のレベルで、心で感じるとき、実践し始めるのです。

 したがって、善い感情は非常に大事です。もしかすると、善い感情は知性よりも大事だとも言えるでしょう。仏教徒として、人間として、善い感情を育てることが大事です。心の内面から善い感情を引き出すのです。

 今日、皆さんはお寺に来て、食事のお布施をしました。おそらく何らかの幸福を感じていると思います。お布施をすることは「信」の一種であり、育てなければならないものです。先生を尊敬することも重要なことです。これも「信」です。このようにして、善い感情を育てなければなりません。

 善い感情の中で最も重要な感情は、慈悲です。慈悲を最高のレベルまで育てるなら、その最高のレベルでは「我」を超えることができます。慈悲の感情を最高レベルまで育てることによって、「無我」(anatta)を感じることができるのです。

 無我とは何でしょうか? 無我とは「我がない」ということで、真の智慧の状態のことです。このとき、慈悲と智慧は同じになり、2つは1つになるのです。 

 このことを実践面でお話いたしましょう。慈悲の瞑想です。通常は説明するのに40分以上かかりますが、今日は時間がないので5分で説明いたします。ポイントだけお話します。

 最初に、自分にたいして慈しみの瞑想をします。「私が幸せでありますように。苦しみがなくなりますように」と心で念じます。

 2番目のステージは、両親・兄弟・友達など自分の親しい人にたいして瞑想します。

 3番目のステージは、好きでも嫌いでもない人にたいして瞑想します。

 4番目のステージでは、嫌いな人・自分を嫌っている人にたいして瞑想します。私たちはどうしても嫌な人にたいして否定的な感情をもってしまいますが、そういう人たちにも、親しい人と同じように「幸せでありますように・・・」と瞑想します。

 これで終わりません。さらに慈悲を育てます。
 「この部屋にいる人が幸せでありますように」
 「この建物にいる人が幸せでありますように」
 「この地域にいる幸せでありますように」
 「日本の人々が幸せでありますように」
 「世界の人々が皆、幸せでありますように」
 と慈悲を育てます。

 人間のみならず、すべての生命にたいして瞑想します。
 見えるものも見えないものも、近くにいるものも遠くにいるものも、すべての生命にたいして、できるかぎり慈悲の心を拡げていくのです。

 このステージでは、対象が自分であれ、親しい人であれ、嫌いな人であれ、好きでも嫌いでもない人であれ、区別を乗り越えています。まったく差別も区別もなくなるのです。これを中国語では「無縁大慈」といいます。縁とは対象のことで、対象(の区別)が無くなり、1つになるということです。そこには我はありません。無我を経験するのです。

 最初のステージでは、自分にたいして瞑想しますが、対象は「自分」で、とても狭い範囲で瞑想します。

 次に、親しい人にたいして瞑想すると、対象の範囲が 「自分+親しい人」 になり、拡がります。

 次に、好きでも嫌いでもない人にたいして瞑想すると、対象の範囲がさらに拡がります。

 次に、嫌いな人にも瞑想すると、もっと拡がります。

 このように一つ一つのステージごとに対象が拡がって行き、同時に「我」が薄まっていきます。

 最後に、すべての人間、それから人間だけでなく、見える者も見えない者も、近くにいる者も遠くにいる者も、生きとし生けるものすべてにたいして瞑想します。

 もし、本当にこの瞑想をすべて完全にやり遂げ、最高のレベルまで心を育てたなら、「無我」を経験するでしょう。

 無我を経験するとはどういうことでしょうか? 
 無我は「最高の智慧」ということです。
 低いレベルから高いレベルへと慈悲の瞑想を育てていき、最高のレベルに達したとき、本物の智慧に達するのです。その智慧に達したとき、慈悲と智慧は同じになります。
 ですから、慈悲の心を育てることを軽視しないでください。

 実際、多くの人にとって、(慈悲の)感情を育てることは簡単ですし、力強い方法です。なぜなら、感情は理性よりも心に強く影響を与え、心を強く動かすからです。ですから慈悲の感情を育てることは、心を清らかにするために、とても力強い方法なのです。

 感情の中でも、慈悲の心は最も明るく美しい心です。

 毎日毎日、数分でも慈悲の瞑想をするなら、人生はものすごく美しく豊かになるでしょう。

 (完)

 生きとし生けるものが幸せでありますように


 翻訳:yoshiko demura

2012年2月6日

慈しみの心(1)

ダンマジョーティ長老 法話


 この法話は、マレーシア出身、香港在住のダンマジョーティ長老が、2010年、東京ゴータミー精舎に滞在中、青年部の方々にたいして説かれた法話です。


 今日は「慈悲」について簡単にお話しいたます。
 一般的に「慈悲」と言われますが、実際は 「慈悲喜捨」の4つです。4つはそれぞれ質が異なり、区別されています。

 慈は「幸せであってほしい」と慈しむ気持ち
 悲は「苦しみがなくなってほしい」と憐れむ気持ち
 喜は「他者の成功を喜ぶ」気持ち
 捨は「落ち着きや平静な心」のことです。

 慈悲喜捨は、感情を清らかにした幸福の状態です。
 この慈悲喜捨の4つの中の1つ、たとえば「慈」(慈しみ)だけでも完全に理解して実践するなら、他の3つ(悲・喜・捨)も理解することができるのです。
 慈しみは仏教の道徳(戒)の基本です。私たちは五戒を守っています。その一つに、「殺生しない」とありますが、皆さんはなぜ殺生しないのでしょうか? なぜこの戒律を守るのでしょうか? 仏教徒だからですか? 先生がやりなさいと言ったからですか?

 五戒は、仏教徒だからとか、先生がやりなさいと言ったから守るものではありません。大事なことは、自分の心で「他の生命が苦しんでほしくない、幸せであってほしい」と感じ、その心から戒律を守るべきなのです。

 戒律を守るときに最も大事なことは、「他人に言われたからやる」というような外的なものではなく、自分の心の中から守ろうとすることが大事なのです。

 ここで、仏教の道徳と他の社会や宗教の道徳の違いがわかると思います。仏教の道徳は、慈しみが基本になっています。

 母親に慈しみがあるなら、その母親にたいして、「このように子供の面倒をみなさい」とか「このように世話をすべきです」などと子育ての方法を教える必要はありません。
 何をすべきか、どうすれば子供をよく育てられるのかを、慈しみのある母親なら知っているのです。
 心から「子供が苦しんでほしくない。幸福であってほしい。自分も苦しみたくないし、幸福でありたい」と願うなら、自ずとどのように行動すべきかということが分かるのです。

 したがって、戒律を守るのは先生が言ったからとか、経典や本に書いてあるから、伝統だから、お釈迦様が教えたから守るのではなく、「自分と他の生命が幸福であってほしい」と願う心があるから守るのです。この心があれば、どのように生きるべきかが分かりますし、そのとき戒律に基づいた生き方ができるでしょう。

 現代のテーラワーダ仏教では、慈しみの重要性がだんだん落ちてきている傾向があります。多くの人は仏教の大学へ行き、テストに合格するために勉強し、知識を得ることを強調しすぎているように思います。もちろん、知識を得ることは大事です。でも、ここで注意しなければならないのは、知識と智慧は別のものだということです。智慧は最も大事なもので、仏教の大きな特徴です。智慧がなければ、解脱はできません。しかし智慧は、経典や仏教の本を読んだり、知識を得たり、話し合いをしても、得られないのです。

 といっても、私たちのような凡人のレベルでは、知識的な理解も必要です。凡人のレベルでは、知識的な理解も重要なのです。
 私たちは瞬間瞬間、判断して生きていなければなりません。たとえば皆さんは今日、お寺に来るという選択をしました。他のところには行きませんでした。その選択は大部分が知識的な理解に基づいているのです。
 知識は解脱の段階では必要ありませんが、仏教を実践するための基本的な知識は必要なのです。

 翻訳: yoshiko demura