2012年2月24日

智慧と善行為(2)

スマナサーラ長老 法話

智慧のある人とは


 善い人か悪い人か、智慧のある人か愚か者か、ということは、「生命にたいしてどれぐらい慈しみの行為をするか」というところで測られます。
 どんな大学を出たかではありません。博士号を三つも持っているとか、肩書きはどうでもよいのです。大学を卒業していなくても、大勢の人々のために役立つ活動をする人はいくらでもいますから。

 共に生きている仲間をどれぐらい助けてあげるか、人々の生活をどれぐらい楽にしてあげるか、人々の苦しみをどれぐらい減らそうと頑張っているか、このように自分のことを後回しにして頑張る人というのは、当然立派な人です。その人のことを「智慧のある人」というのです。

 定義は簡単です。「慈しみのある人が智慧のある人で、慈しみのない人が愚か者」ということです。

 世の中で犯罪を起こす人たちも、当然、俗世間の知識はあります。知識がなければ、テロ行為はできないでしょう。高度な知識がなければ、計画をたてたり組織をまとめたりすることはできないのです。

 愚か者か智慧のある人かということは、一般世界ではいろいろな定義があるでしょうが、仏教では「慈しみがあるか否か」というところで測ります。

 生命を慈しむ人が、智慧のある人です。何の差別もなく、民族的にも、宗教的にも、経済的にも、何の差別もしないで、とにかく生命を慈しむ、それこそが立派な人間なのです。


善行為の目的


 「善行為」ということについて、どの宗教でも、一般社会でも、「善行為をしましょう」と言っています。仏教でも「善行為をしましょう」と言っています。しかし、仏教の場合はちょっと違います。「智慧を開発しなければ意味がない」と言うのです。
 いわゆる、いくら善行為をしても、やっただけでは意味がありません。
 何かをやるならば、何らかの目的が必要ですし、その目的に達しなければならないのです。
 たとえば飛行機でハワイへ行って、次の便で日本に戻って来たとしましょう。それで「私はハワイに行って来た」と言う。
 でも、それでは何のためにハワイに行ったのかわかりません。意味がないのです。
 ハワイに行くなら、何か目的があるはずです。ビジネスで行くのか、観光で行くのか、どこを訪問するのか、何を見るのか、どんな遊びをするのか、そこで計画をたてて行って、行った目的を達成したなら、その人には「私はハワイに行って来た」と言えるのです。飛行機に乗って往復しただけでは何の意味もありません。

 同様に、善行為をしただけではあまり意味がありません。何か目的を設定して、その目的に達しなければ意味がないのです。
 仏教が設定する目的は、「智慧を開発すること」です。
 もし、善行為をしたけれども智慧は何も開発しなかった、というならば、「ご苦労様」ということで終わってしまうのです。

 (続きます)

文責 : yoshiko demura


2012年2月18日

智慧と善行為(1)

スマナサーラ長老 法話

智慧が開発するか否か


 善行為って何でしょうか? 
 社会では「善行為をしましょう」ということは当たり前になっています。
 仏教でも、そのように言っていますが、仏教では善行為のことは、そんなに大げさにしていません。
 一番ポイントにしているのは「智慧が開発するか否か」ということです。
 仏教の教えは「智慧の教え」ですから、「智慧」のことばかり教えています。他にも道徳など教えは大量にありますが、智慧が一番上にあって、他の教えは飾りのようなものです。智慧が王冠です。智慧があれば、他のものはいっしょに付いてくるのです。

 なぜ、智慧が一番大事なのかといえば、これには理由があります。
 「智慧が無い」ということは「無知」ということです。無知で幸せになるということはありませんし、無知だから成功したということもありません。
 お釈迦様は、「災難や危害、苦難などの不幸というものはすべて無知、あるいは愚か者から生じるのであって、智者からはいかなる苦しみも起こりません」とおっしゃっています。
 ですから、この世の中で何か不幸なことや理不尽なこと、不公平なこと、人々に不幸を招くことが起こったならば、その手綱を握っているのはいつでも誰か愚か者なのです。

 世の中には危険なことがたくさんあります。テロ行為や戦争、暗殺、人殺しなどがありますし、強盗や詐欺、ごまかしなどもあります。いろいろな恐ろしいことがあります。きりがありません。そこで不公平なことや災難、苦難に陥る出来事があったならば、それは必ず無知な人の仕業なのです。

 では、そうした無知な人たちは知識がない愚か者なのでしょうか? たとえば綿密な計画をたててテロ行為をする人たちはバカでしょうか? 実は、彼らは結構勉強している優秀なエンジニアや科学者たちです。貧乏人でもありません。豊かで、勉強している知識人たちです。ですから、本当に愚か者でしょうかという疑問がでてきます。

 仏教では、大学で知識を学んだから、有名大学を卒業したからといって、智慧のある人だとは言いません。「やっている行為は何ですか」というところを見るのです。
 智慧というのは、科学や工学、経済学などの知識を学んで得られるものではありません。知識を得ても、愚かなままなのです。

 どこで愚かと決めるかといいますと、「生命にたいして慈しみがない、どうなってもいい」と生命のことを心配しない人のことを、「愚か者」というのです。

 たとえば原子爆弾を開発して、さらに高性能のものを開発した科学者たちは、私たち凡人よりはずいぶん勉強ができる知識人たちでしょう。彼らは一流の大学を卒業した人たちばかりですが、実際は極限的な愚か者です。なぜなら、人類に多大な危害をもたらしているのだから。彼らに関心があるのは、自分の研究だけで、研究データが出るか出ないか、それだけに関心があるようです。放射性物質があちこちに拡散したとき、言うことは「では、放射性物質がどのように人体に悪影響を与えるかを調べましょう」と、それだけ。「人類に多大な危害を及ぼすこんな恐ろしいものをつくってはいけない」とは言わないのです。

 ですから、大学の研究室でずっと研究しているからといって、肩書きが一メートルぐらいあるからといって、その人が智慧のある人だと絶対に思わないでください。
 生命のことを心配するか、生命のために何か役立つことをするか、人類の模範になるような人物か、若者たちがモデルにした方がいい人間か、必要なのはこうしたことなのです。

 (続きます)

文責 : yoshiko demura

2012年2月12日

慈しみの心(1)

ダンマジョーティ長老 法話


この法話は、マレーシア出身、香港在住のダンマジョーティ長老が、2010年、東京ゴータミー精舎に滞在中、青年部の方々にたいして英語で説かれた法話を通訳したものです。


 今日は「慈悲」について簡単にお話しいたます。
 一般的に「慈悲」と言われますが、実際は 「慈悲喜捨」の4つです。4つはそれぞれ質が異なり、区別されています。

 慈は「幸せであってほしい」と慈しむ気持ち
 悲は「苦しみがなくなってほしい」と憐れむ気持ち
 喜は「他者の成功を喜ぶ」気持ち
 捨は「落ち着きや平静な心」のことです。

 慈悲喜捨は、感情を清らかにした幸福の状態です。
 この慈悲喜捨の4つの中の1つ、たとえば「慈」(慈しみ)だけでも完全に理解して実践するなら、他の3つ(悲・喜・捨)も理解することができるのです。
 慈しみは仏教の道徳(戒)の基本です。私たちは五戒を守っています。その一つに、「殺生しない」とありますが、皆さんはなぜ殺生しないのでしょうか? なぜこの戒律を守るのでしょうか? 仏教徒だからですか? 先生がやりなさいと言ったからですか?

 五戒は、仏教徒だからとか、先生がやりなさいと言ったから守るものではありません。大事なことは、自分の心で「他の生命が苦しんでほしくない、幸せであってほしい」と感じ、その心から戒律を守るべきなのです。

 戒律を守るときに最も大事なことは、「他人に言われたからやる」というような外的なものではなく、自分の心の中から守ろうとすることが大事なのです。

 ここで、仏教の道徳と他の社会や宗教の道徳の違いがわかると思います。仏教の道徳は、慈しみが基本になっています。

 母親に慈しみがあるなら、その母親にたいして、「このように子供の面倒をみなさい」とか「このように世話をすべきです」などと子育ての方法を教える必要はありません。
 何をすべきか、どうすれば子供をよく育てられるのかを、慈しみのある母親なら知っているのです。
 心から「子供が苦しんでほしくない。幸福であってほしい。自分も苦しみたくないし、幸福でありたい」と願うなら、自ずとどのように行動すべきかということが分かるのです。

 したがって、戒律を守るのは先生が言ったからとか、経典や本に書いてあるから、伝統だから、お釈迦様が教えたから守るのではなく、「自分と他の生命が幸福であってほしい」と願う心があるから守るのです。この心があれば、どのように生きるべきかが分かりますし、そのとき戒律に基づいた生き方ができるでしょう。

 現代のテーラワーダ仏教では、慈しみの重要性がだんだん落ちてきている傾向があります。多くの人は仏教の大学へ行き、テストに合格するために勉強し、知識を得ることを強調しすぎているように思います。もちろん、知識を得ることは大事です。でも、ここで注意しなければならないのは、知識と智慧は別のものだということです。智慧は最も大事なもので、仏教の大きな特徴です。智慧がなければ、解脱はできません。しかし智慧は、経典や仏教の本を読んだり、知識を得たり、話し合いをしても、得られないのです。

 といっても、私たちのような凡人のレベルでは、知識的な理解も必要です。凡人のレベルでは、知識的な理解も重要なのです。
 私たちは瞬間瞬間、判断して生きていなければなりません。たとえば皆さんは今日、お寺に来るという選択をしました。他のところには行きませんでした。その選択は大部分が知識的な理解に基づいているのです。
 知識は解脱の段階では必要ありませんが、仏教を実践するための基本的な知識は必要なのです。

 翻訳/通訳: 出村佳子


2012年2月11日

慈しみの心(2)

 ダンマジョーティ長老 法話

 仏教は「五力」ということを教えています。
 今日は時間があまりありませんので、詳細までは説明できませんが、一つのポイントだけご説明いたします。

 「五力」とは、覚りに必要な五つの力のことで、信・精進・念・定・慧です。
 五つのうち、「信」(確信)と「慧」(智慧)はバランスをとらなければなりません。もし「信」だけが強くて「慧」がなければ、迷信(妄信)に陥ってしまいます。

 現代のテーラワーダ仏教徒は、「信」はあまり必要ないと考える人が結構います。そして、「仏教は徹底的に科学的な教えであり、他の宗教とは違う。仏教は「信」を必要としない」などと言って、仏教は一番優れている、と主張します。現代のテーラワーダ仏教徒はこのように言ってお釈迦様の教えを教えている人が多いのではないかと私は思います。

 しかし、「信」は大事なものです。パーリ語でsaddhāと言い、サンスクリット語でśraddhāといいます。

 仏教でも他の宗教でも、心なしに、ただ頭だけで教えを理解するなら、そこには心が関係していませんから、宗教とは言えません。心が関係していないとなりません。

 たとえば、お釈迦様に礼拝するとします。そのとき、「やらなければならないからお釈迦様に礼拝する」とか「仏教のしきたりだから礼拝しなければならない」と考えるのは、頭での理解のレベルです。

 そうではなく、心で感じて、感情のレベルで礼拝することが大事です。「お釈迦様は広大無辺の慈悲があり、生命が達することのできる最高のレベルまで心を清らかにした偉大なる方だ」などと本当に心で感じることができるなら、そのときは自分が自ずと謙虚になり、自然に礼拝するでしょう。他人に言われて礼拝するのではありません。

 単なる知識のみで、「この教えは論理的で、いい教えだ」と考えて勉強するだけでは、実践しようとする気持ちは起こらないでしょうし、人生も幸福にならないでしょう。
 そうではなく、心で感じるなら、内面から刺激され、実践しようとする気持ちになります。

 どんな経典でも、どんな教えでも、たとえそれらが論理的に正しく、非常に深い哲学であったとしても、もし心で理解しなければ、意味がありません。心で理解したとき、「幸福の道を歩もう、実践しよう」という気持ちが起こるのです。感情のレベルで、心で感じるとき、実践し始めるのです。

 したがって、善い感情は非常に大事です。もしかすると、善い感情は知性よりも大事だとも言えるでしょう。仏教徒として、人間として、善い感情を育てることが大事です。心の内面から善い感情を引き出すのです。

 今日、皆さんはお寺に来て、食事のお布施をしました。おそらく何らかの幸福を感じていると思います。お布施をすることは「信」の一種であり、育てなければならないものです。先生を尊敬することも重要なことです。これも「信」です。このようにして、善い感情を育てなければなりません。

 善い感情の中で最も重要な感情は、慈悲です。慈悲を最高のレベルまで育てるなら、その最高のレベルでは「我」を超えることができます。慈悲の感情を最高レベルまで育てることによって、「無我」(anatta)を感じることができるのです。

 無我とは何でしょうか? 無我とは「我がない」ということで、真の智慧の状態のことです。このとき、慈悲と智慧は同じになり、2つは1つになるのです。 

 このことを実践面でお話いたしましょう。慈悲の瞑想です。通常は説明するのに40分以上かかりますが、今日は時間がないので5分で説明いたします。ポイントだけお話します。

 最初に、自分にたいして慈しみの瞑想をします。「私が幸せでありますように。苦しみがなくなりますように」と心で念じます。

 2番目のステージは、両親・兄弟・友達など自分の親しい人にたいして瞑想します。

 3番目のステージは、好きでも嫌いでもない人にたいして瞑想します。

 4番目のステージでは、嫌いな人・自分を嫌っている人にたいして瞑想します。私たちはどうしても嫌な人にたいして否定的な感情をもってしまいますが、そういう人たちにも、親しい人と同じように「幸せでありますように・・・」と瞑想します。

 これで終わりません。さらに慈悲を育てます。
 「この部屋にいる人が幸せでありますように」
 「この建物にいる人が幸せでありますように」
 「この地域にいる幸せでありますように」
 「日本の人々が幸せでありますように」
 「世界の人々が皆、幸せでありますように」
 と慈悲を育てます。

 人間のみならず、すべての生命にたいして瞑想します。
 見えるものも見えないものも、近くにいるものも遠くにいるものも、すべての生命にたいして、できるかぎり慈悲の心を拡げていくのです。

 このステージでは、対象が自分であれ、親しい人であれ、嫌いな人であれ、好きでも嫌いでもない人であれ、区別を乗り越えています。まったく差別も区別もなくなるのです。これを中国語では「無縁大慈」といいます。縁とは対象のことで、対象(の区別)が無くなり、1つになるということです。そこには我はありません。無我を経験するのです。

 最初のステージでは、自分にたいして瞑想しますが、対象は「自分」で、とても狭い範囲で瞑想します。

 次に、親しい人にたいして瞑想すると、対象の範囲が 「自分+親しい人」 になり、拡がります。

 次に、好きでも嫌いでもない人にたいして瞑想すると、対象の範囲がさらに拡がります。

 次に、嫌いな人にも瞑想すると、もっと拡がります。

 このように一つ一つのステージごとに対象が拡がって行き、同時に「我」が薄まっていきます。

 最後に、すべての人間、それから人間だけでなく、見える者も見えない者も、近くにいる者も遠くにいる者も、生きとし生けるものすべてにたいして瞑想します。

 もし、本当にこの瞑想をすべて完全にやり遂げ、最高のレベルまで心を育てたなら、「無我」を経験するでしょう。

 無我を経験するとはどういうことでしょうか? 
 無我は「最高の智慧」ということです。
 低いレベルから高いレベルへと慈悲の瞑想を育てていき、最高のレベルに達したとき、本物の智慧に達するのです。その智慧に達したとき、慈悲と智慧は同じになります。
 ですから、慈悲の心を育てることを軽視しないでください。

 実際、多くの人にとって、(慈悲の)感情を育てることは簡単ですし、力強い方法です。なぜなら、感情は理性よりも心に強く影響を与え、心を強く動かすからです。ですから慈悲の感情を育てることは、心を清らかにするために、とても力強い方法なのです。

 感情の中でも、慈悲の心は最も明るく美しい心です。

 毎日毎日、数分でも慈悲の瞑想をするなら、人生はものすごく美しく豊かになるでしょう。

 (完)

 生きとし生けるものが幸せでありますように


 翻訳/通訳: 出村佳子