2010/10/24

自ら励みなさい

よく、このような質問を受けます。

「自分の心に慈悲を育てたら、他人の痛みや苦しみ、憎しみを取り除くことができますか?」

お釈迦さまですら、他の人にたいして 「やすらかで幸せになりますように」と願うだけでは、その人の痛みや苦しみを取り除くことはできませんでした。

お釈迦さまはこのようにおっしゃいました。
 
 あなた方は解脱するために 
 自ら励みなさい。
 ブッダは法を説くだけである。

 グナラタナ長老

2010/10/21

刺激論〈もくじ〉

スマナサーラ長老法話

刺激論:スマナサーラ長老法話


1 眠っている頭

2 生ごみより臭い妄想

3 刺激の奴隷

4 知っているのは「主観」

5 パパンチャのからくり

6 囚われずに歩む


文責:出村佳子

生きとし生けるものが幸せでありますように

2010/10/17

「他者に尽くす」とは

「他者に尽くす」ということは、
自分を犠牲にして 自分ができる以上のことをやることだ
と多くの人が考えています。
しかし、これは事実ではありません。
なぜなら、どんなことも
「どんな心で尽くすか」という その人の気持ちや
どのくらい「無私の心」を育てているか、ということで決まるからです。

~スリダンマナンダ長老

2010/09/30

阿羅漢の智慧

阿羅漢 (完全に覚った人)の智慧 は、
ものごとを あるがままに観察します。
心を散乱させることも 混乱させることもなく、
生じてくる諸々の感覚を 
始めから終わりまで観察するのです。

2010/09/25

瞑想をすると・・・

瞑想をすると、心も身体も 自然にリラックスします。
そして 煩悩は消えていきます。
眠気や睡魔は 注意深さに換わり、
曖昧さや優柔不断は 確信に換わります。
怒りや憎しみは 喜びに換わり、
不安や悩みは 幸福に換わります。
そして潜在意識に埋もれていた慈しみが表面にあらわれ、
それによって 私たちは より穏やかで幸せになるのです。

~グナラタナ長老

2010/09/18

心が清らかな人を非難する人・・・

心が清らかな人を非難する人は、
天に向かって唾を吐くようなものです。
唾は天を汚さず、唾を吐いた人を汚します。

他人の悪口を言う人は、
向かい風に向かって塵を投げるようなものです。
投げた塵は、投げた人に降りかかります。

心が清らかな人を傷つけることはできません。
苦しみは、悪口を言った人に戻ります。

~スリダンマナンダ長老

2010/09/12

自分の苦しみは・・・

自分に生じている苦しみは、自分の責任です。

何かにたいして いらだったり いやな気持ちになったりすれば、
自分の心に 苦しみが生まれます。

ですから、世界が悪いのではなく、
いやな気持ちになった自分が悪い
ということを 理解してください。

~スリダンマナンダ長老

2010/09/04

自分が一番愛おしい

全世界のどこを探しても、
自分より愛しい人を見つけることはできません。
自分が 他の誰よりも愛おしい。
そのように、他の生命も 自分のことが いちばん愛おしい。
それゆえ、自分を愛する者は 他の者を害してはなりません。

2010/08/29

怒り

怒りには
心のエネルギーを消耗させ、
これまで積み上げてきた瞑想や
戒律の実践を 台無しにする
破壊力があります

~グナラタナ長老

2010/08/22

どうすれば・・・

どうすれば
心の安らぎ、穏やかさ、落ち着きが
得られるでしょうか?

自分の優越感を減らし
高慢を追い払い
エゴを抑え
頑固さを捨て
冷静にいることです。
 
~スリダンマナンダ長老

2010/07/27

Katannu sutta 【恩を知る】

”比丘たちよ、人格者(立派な人)とはどのような人か、
人格者ではない人(立派ではない人)とはどのような人か、
ということについて説きます。よく注意して聞いてください”

”世尊よ、わかりました” と比丘たちは答えました。

”「人格者ではない人」 とはどのような人でしょうか?
「人格者ではない人」 とは、自分(たち)を助けてくれた人の恩を知らず、
感謝しない人のことです。
この 感謝しない恩知らずは、下品な人の習性です。
これが 「人格者ではない人」 です。

「人格者」 とはどのような人でしょうか?
「人格者」 とは、自分(たち)を助けてくれた人の恩を知り、
感謝する人のことです。
感謝をし、恩を知る人は、善良な人の習性です。
これが 「人格者」 です”

~Katannu sutta

2010/07/21

囚われずに歩む(刺激論6)

誘惑されるのは誰のせい?


餌について、仏教にはこのような話があります。

ある人がお釈迦さまに「この世の中には美しいものがありすぎて、誘惑が多すぎます。私はこの美しいものが欲だと思います」と言いました。

これに対し、お釈迦さまは次のように説かれました。


Na te kâmâ yâni citrâni loke,
Sankappa râgo purisassa kâmo;
Titthanti citrâni tatheva loke,
Athettha dhîrâ vinayanti chandam.
(Sanyutta Nikaya ,I. 22)


この世の中にある美しいものは欲ではない。
人の心の妄想が欲である。
様々なものは、世の中にただそのように在るだけである。
それゆえ、賢者は心の欲を捨て去る。


世の中には種々様々な色や形が、ただ区別的にあるだけなのです。

花には花の色形があり、人には人の色形がある、それだけです。

ですから「美しい花々に魅了された」とか「あの人は美人だ、脳裏に焼きついて離れない、誘惑された」などと外部の対象のせいにするのはおかしいのです。

花や人が誘惑したわけではありません。

自分の心の欲のために、対象に誘われ、釣られて、束縛されたのです。


「タバコをやめようと思っているけどなかなかやめられない」という人も結構いらっしゃるでしょう。

禁煙するぞと固く決心するのですが、イライラしたり、会社で周りの人たちが吸っているのを見ると、つい「1本だけ」と吸ってしまうのです。

タバコがやめられないのはタバコのせいでしょうか?

違います。タバコが誘惑しているのではなく、自分の心の欲に負けているのです。

そこで欲とは何でしょうか?

仏教の答えは「欲とは自分の妄想である」ということです。

外の対象が私たちを誘惑して束縛しているのではありません。

私たちの心に湧き起こってくる、美しいとか、おいしそうとか、儲けたいとか、偉くなりたいとか、欲しいなどという妄想が欲なのです。

これは、お釈迦さまが悟りを開かれた智慧で世の中を鋭く観察して発見なされた偉大なる真理です。


人間関係の悩み


一般的に、私たちは人間関係でものすごく苦労して悩んでいます。

自分が生んだ子供なのに、その子とうまくつきあってゆくのも簡単ではありません。

子供は親の言うことを聞かないし、親は子供が何を考えているか分からずに苦しんでいます。

子供とのつきあいも大変なのだから、他人とのつきあいはどれほど複雑で難しいかというと ――。それで私たちはいつでも人間関係に悩まされ、苦しんでいるのです。

そして助けを求めてあっちこっちに走り回っています。不倫に走る人、酒に走る人、金儲けに走る人、権力に走る人、おしゃれに走る人、信仰や神様に走る人、いろんなところに走り回って、別のものを追い求めるのです。

でも考えてみてください。これらの問題はどれも、自分が見たことや聞いたこと、考えたこと、感じたことから生じているのではないでしょうか。

ですから私たちの悩みや苦しみというのは、外部の情報を感受する6つの感覚器官(眼耳鼻舌身意)から生じているのです。

これらが、あらゆる苦しみの原因なのです。

家庭内暴力も、夫婦喧嘩も、権力争いも、戦争も、すべての問題は、眼耳鼻舌身意から生まれているのです。


認識システムは、もろい


眼耳鼻舌身意に色声香味触法が触れると、瞬間的に感覚が生じて、膨大な妄想の世界が現れます。

眼に色形が入った瞬間、もうとっくに妄想しているのです。

たとえばテーブルの上に饅頭が置いてあるとしましょう。

饅頭の色形が眼に入ったとたん「あ、饅頭だ、おいしそう、1つ食べたい」と、もう欲の妄想が湧き起こっているのです。ときどき手を伸ばして口のなかに入れていることさえあります。

この反応の速さ、どのぐらい速いと思いますか?

途轍もなく速いのです。


しかし、この「認識システム」はあまりにももろいのです。

ちょっとしたことで壊れます。

(1)眼耳鼻舌身意と、(2)色声香味触法と、(3)認識(眼識・耳識・鼻識・舌識・触識・意識)の三つのセットのうち、どれか一つでも壊れると、セット全体が壊れるのです。

たとえば、ある晴れた日に美しい花がいっぱい咲いている公園に出かけたとしましょう。

花の好きな人は、その美しさにひかれて楽しくてたまりません。

しかし、いくら眼の前に美しい花が咲いていたとしても、眼を閉じたらどうなるでしょうか?

何も見えないのです。

眼を閉じた瞬間、あの強烈な欲望が、さっと消えてしまうのです。

あるいは夜、明かりのない真っ暗闇のなかでその花を見ても、何も見えません。

見えなければ、きれいだとか、美しいとか、1本持って帰りたい、という欲望も妄想も生まれてこないのです。

このように私たちの認識システムは大変もろいもので、ちょっとしたことで壊れるのです。


そこで皆さんに理解していただきたいのは、見えるものや聞こえるもの、匂うもの、味わうもの、触れるもの、考えるものに、そんなにしがみついて執着しなくてもいいのではないか、ということです。

私たちはいつでも目先の楽しみや刺激を追い求め、結局はそれらに釣られて苦しんでいます。

ものごとに引っ掛かって執着すれば、あらゆる苦しみを味わう羽目になります。

これが私たちの最大の問題なのです。

しかし、客観的に事実を観察して「ものごとはすぐに消え去る儚いもの」ということを理解するなら、欲望や執着は生まれませんし、苦しみを味わうこともないのです。


煩悩のストップ


眼耳鼻舌身意に色声香味触法が触れると、感情がふつふつと現れてきます。

そしてそれからごちゃごちゃ考え始めるのです。

「考える」というと、なんとなく知的なように聞こえますが、仏教から見れば、考えるということは、つまり妄想のことです。

どんなに「立派なことを考えた」と思っていても、それは単なる感情の空回りにすぎません。

瞑想で自分の妄想を客観的に観察してみてください。

観察すれば、怒りの回転か、欲の回転か、くだらない回転か、そういう貪瞋痴の回転しかやっていないということが発見できるでしょう。

私たちは普段「私はこう考えている」とか「これは自分の意見だ」などと主張して、ときには他人を攻撃してまで自分の意見を押し通すこともありますが、本当はたいしたことは考えてないのです。

すべては感情の空回りであり、ただの妄想なのです。


そこで、眼耳鼻舌身意に色声香味触法が触れた瞬間、たとえば眼に色形が入った瞬間、妄想を展開させずに、「見えた」と、そこでストップしたらどうなるでしょうか?

何の妄想も、何の主観も、何の煩悩も生まれてこないのです。

それで心がすごく穏やかになるのです。

悟った人は、ここでストップします。妄想には行きません。

悟った人に煩悩が無いというのは、眼が見えないとか耳が聞こえないとか、何も感じないということとはまったく違います。

悟った人は常に目覚めて、ものごとを鋭く観察していますから、誰よりも鋭く聞こえていますし、鋭く見えています。ただ妄想には行かないのです。


最後に、有名なお釈迦さまの言葉をご紹介いたしましょう。


Kâmâ hi citrâ madhurâ manoramâ
Virûparûpena mathenti cittam,
Âdînavam kâmagunesu disvâ
Eko care khaggavisânakappo.
(Suttanipâta50 )


外に見えるもの、聞こえるもの、匂うもの、
味わうもの、触れるもの、考えるものは、
美しく、おいしく、喜ばしいものである。
これらはあらゆる形をとって(様々に変化し)心を混乱させる。
欲望の対象(色声香味触法)には恐ろしい災いがあることを見て、
あらゆるものから離れるべきである。
犀の角のように、独り歩む。


(完)


A. スマナサーラ長老 法話
文責:出村佳子

『刺激論』目次


刺激論:スマナサーラ長老法話


2010/07/10

ただ観るだけ

日常、生活するときは、概念が必要です。
このとき、大まかな気づきと理解を使って
自分の行動、思考、意志などを観察します。
でも、苦しみを完全に終わらせたい人は
ほんの少しの時間 … 1日 30分だけでも
「ただ観るだけ」 の実践をすべきです。

~シンシア・タッチャー

2010/07/06

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口座番号:9725750
口座名デムラ ヨシコ


生きとし生けるものが幸せでありますように


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2010/05/11

パパンチャのからくり(刺激論5)

瞬間的に考える働き(Vitakka)


知る(sanjâna)という働きの後には、ヴィタッカ(Vitakka)が生まれます。

ヴィタッカは漢訳で「尋」、意味は「考える」です。

じっくり考えるのではなく、瞬間的に考えることです。

閉じていた眼をパッと開けると、眼に色形が入ります。

もし目の前に花があるなら、その瞬間に「花」と分かるでしょう。

これがヴィタッカです。

瞬間的なことですので皆さんは、考えてないと思われるかもしれませんが、真理の立場から見ると、これは考えていることになるのです。

この微妙な働きを仏教では「考える」というのです。

「花」と認識した瞬間、もう考えたのです。

頭の中ではいろいろなデータが集められ、花と、花ではない無数のものとを比較し、区別して「これは花だ」とほんの一瞬のうちに処理したのです。

考えなければ「花」という結論には至れません。

この瞬間的に考えることをヴィタッカと言います。


妄想を作る働き(papañca)


ヴィタッカの次に、とんでもないことが始まります。

「パパンチャ・papañca」ということ。

ヴィタッカは「花」とか「人」とか「建物」などと瞬間的に考えることですが、その後に、欲や怒り、憎しみ、悲しみ、後悔、嫉妬などのさまざまな感情が湧き起こってきて、頭の中でごちゃごちゃ考え始めるのです。

これをパーリ語で「パパンチャ」と言います。

パパンチャは訳しにくい言葉ですが、「現象」とか「妄想」という言葉が一番適切で、理解しやすいでしょう。実際には無いものを有ると考えて、実体化、固定化することです。


たとえば4人で友人の家に行ったとしましょう。

部屋に入ると新しいカーテンが掛かっているのが見えました。

見えた瞬間、4人とも「カーテンだ」と分かります。これはヴィタッカの働きです。

次の瞬間、それぞれの人の心に何らかの感情が湧き起こり、知識というへんなものが生まれてくるのです。

たとえばAさんはカーテンを見て「明るくてきれい」と言うし、Bさんは「色は好きだけど模様がへん」と言います。Cさんは「色が派手すぎる」、Dさんは「色も模様も好きだけど生地が薄い」などと、みんな別々のことを言うのです。

ですから、同じ一つのものを見ても「何を考えるか」は人によって違うのです。

みんな、自分の頭の中で合成して現象化したものを喋っているのであって、事実を喋っているわけではありません。

このようにして、外のものが眼に触れた瞬間、心の中に「妄想」という複雑で巨大なエネルギーが現れてくるのです。


なぜ腹が立つのか?


そこで妄想するときは、欲か怒りか無知という感情が付いてきます。

そして感情でごちゃごちゃ妄想したことを「私の知識」と思い込み、さらに「私の知識は正しい」と誤解するのです。

そして「自分はこんなことを知っている」と、堂々と皆に喋るのです。

しかし何を喋っても、それはその人が作り上げたパパンチャの世界にすぎません。

人間社会におけるコミュニケーションや生き方のすべてが、この「パパンチャのからくり」で出来ているのです。

だからです、私たちがお互いに別々の世界に生きているのは。

みんな自分のことしか知らないし、他人のことは知りません。

なぜ私たちは喧嘩するのでしょうか?

自分が考えていることと相手が考えていることが違うからです。

「このカーテンの模様はへん」と言われたら、その部屋に住んでいる人は気持ち悪くなるのです。

その人が気に入ったから買ったカーテンでしょう。

友人に「へん」と言われたら、どことなく貶されたような感じがして、機嫌が悪くなるのです。

あるいは、インテリアデザイナーが部屋に来て「このカーテン、ちょっと地味ですね」などと言われると、相手はプロですから、「自分には美的感覚がないんだ」と妄想して自信を失くしたり落ち込んだりするのです。

しかし人が何を言おうとも、それらはすべて各人の妄想にすぎません。

でも私たちは、妄想は現実で固定的で、実在するものだと思い込み、そのために大変な苦しみを味わっているのです。

私たちは何の疑いもなく「自分は世の中のことを見ている、知っている」と思っています。

しかし、ありのままの事実は見ていません。

感覚器官に触れた情報について妄想したものを知っているにすぎないのです。

ヴィタッカと妄想は別のものです。

ヴィタッカは瞬間的に考える働きで、瞬時に頭の中でさまざまなデータを集め、区別し、判断することです。これはそれほど問題を起こしません。

しかし次の瞬間「この花はきれい」とか「汚い」とか「私の意見は正しい」「あなたの考えは間違っている」などと、巨大な妄想の世界がドーンと現れてくるのです。

妄想するときは必ず自分の好き嫌いが絡んできます。花はきれいと思ったら「好き」という欲が、汚いと思ったら「嫌い」という怒りが入っています。私たちは欲と怒りと無知で妄想の世界を作り上げているのです。

人間だけでなく、すべての生命が妄想の中で生きているのです。


大切なのは実験すること


これまで「認識システム」について軽く説明してきましたが、ここは大変重要なポイントです。

ですから、ご紹介したいくつかのキーワードを覚えておいて、日常生活の中でよく実験していただきたいのです。実験することが大切です。

たとえば猫を飼っているなら、猫がいる前で眼を閉じて、パッと開けてみてください。

その瞬間「猫だ」とお分かりになるでしょう。

次に、どんな感情が湧き上がってきますか?

猫が大好きで我が子のようにかわいがっている人なら「かわいくてたまらない」と思うでしょう。これが妄想なのです。

そしてこのとき同時に「自分の考えは絶対に正しい ―― 猫がかわいいということは真実である」と固く決め付けているのです。

そこへ、猫嫌いの人が家に遊びに来たとしましょう。その人は猫を見たとたん「嫌だ、気持ち悪い」と言いました。

そうすると、猫好きの人はすごく気分が悪くなるのです。なんて失礼な人だ、と。できれば二度と家に来てほしくないという気持ち。

そこで、なぜ腹が立ったのでしょうか?

それは、自分がかわいがっている猫を、相手も同じようにかわいいと言ってくれなかったからです。

いろいろ実験してみてください。妄想が生まれる過程を、あらゆる場面で観察してみてください。

会社に苦手な上司や嫌いな同僚がいるなら、その人を見た瞬間どんな感情が込み上がってくるでしょうか?

たいがいは「嫌だ」と妄想するでしょう。

でも、ほかの人がその人を見たとき、自分と同じ嫌な気持ちになるかというと、そうではありません。なんのことなく親しく話しているのです。

ですから「嫌だ」と思うのは、自分個人の主観であり妄想であって、事実ではないのです。

どんな親でも、自分の子供は世界一かわいいと思っているものです。でも、近所の子供に対しては、悪ガキと思ったりします。

なぜ自分の子供が世界一かわいくて、近所の子を悪ガキだと思うのでしょうか?

そこが妄想の世界なのです。真実の世界ではありません。

このように、私たちは頭の中で好き勝手にいろんなことを考えて固定概念を作り上げ、それを真実だと錯覚して生きているのです。


ニッパパンチャの世界


そこで、お釈迦さまは「目覚めなさい、現象を見るのではなく、ありのままを観なさい」と諭されて、パパンチャを破る「ニッパパンチャ・nippapañca」の世界を教えられました。

ニッパパンチャの世界とは、一切の妄想概念から解放された自由の境地、いわゆる涅槃のことです。

妄想概念を破ることは、簡単なことではありません。

しっかり心を育てなければならないのです。

たとえば耳に音が触れたとき、どんな音が触れようとも、「聞こえた」と、そこでストップするのです。

「あ、上司の声だ → 嫌だ → また何か文句を言われるのか → うるさいなあ → ほんとうに頭にくる……」

というふうに勝手に頭の中で妄想を回転させないことです。

ただ「聞こえた」、あるいは「音」という事実のところでストップするのです。

それだけです。

しかし、ちょっと気がゆるむと、すぐに妄想が回転し始めて「嫌だ」とか「うるさい」などという怒りが湧き起こってきますから、常に気をつけるよう、心を育てなければなりません。

(続きます)


A. スマナサーラ長老 法話
文責:出村佳子

『刺激論』目次


刺激論:スマナサーラ長老法話



2010/04/26

心を直視する(ストレス完治への道 2)


ストレスと老化


ストレスの多い人は早く老化する傾向があります。とくに内臓が早く老化します。表面的に老けるのはどうということはありませんが、内臓の老化は無視しないほうがいいでしょう。たとえば実際の年齢が四十歳なのに、医者に「あなたの肝臓の年齢は六十歳です」と言われたら、気をつけたほうがいいのです。最近では、このようにして身体の部分を年齢で言い表すことがあります。心臓の年齢、血管の年齢、脳の年齢、骨の年齢、肌の年齢などと。これ、おもしろいと思います。実際の年齢が四十歳なのに肝臓の年齢が六十歳ということは、肝臓がかなり老化しているということです。いったん老化したら、残念ながら元に若返ることはありません。生きるということは、別の言葉で言えば、老化するということですから、私たちは老化の流れを逆戻りさせたり、停止させることはできないのです。でも、その進行スピードをゆるやかにしてノーマルスピードに戻すことは、ある程度できます。心と身体をよく管理して、気をつけて生活すればよいのです。そうすれば七十歳や八十歳になったとき、内臓もだいたいその年齢にいるでしょう。

ストレスは行為の結果


ストレスは、行為の結果生じている現象です。自分が何か悪いことをやっているのです。商売をするのは悪いことではありませんが、怒りと欲でやっているからストレスが溜まるのです。子育ては別に善いことでも悪いことでもなく単なる自然の行為なのですが、これを強烈な愛欲と執着でやっているから全部罪になってしまうのです。悪い行為には必ず悪い結果があります。この悪い結果がストレスなのです。それでじわじわと高血圧や胃潰瘍、うつ病、自律神経失調症などの病気になり、ひどいときには腎臓の機能が停止したり、癌に侵されることもあります。内蔵が異常を起こして、どうにもならなくなるのです。

貪りや怒り、無知で行動すれば悪いエネルギーが溜まりますが、反対に、貪らず怒らず智慧をもって生活すれば、善い行為の結果として善いエネルギーが溜まります。身体が健康になり、顔色も明るくなり、行動は素早く、やるべきことをテキパキやれるようになるのです。活発で素早いのですが、老けるスピードはゆっくり。実際の年齢よりもだいたいは若く見えるものです。でも、多くの人はこれとは逆で、仕事は遅いし失敗ばかり。何度もやり直しをしなければなりませんから時間がどんどんなくなります。なのに、老けるスピードだけは速い。これは貪りと怒りと無知の衝動で行動しているからなのです。

大昔、人間の寿命がすごく長い時期があったという話が経典にあります。青年期が四万八千年、中年期が四万八千年、老年期が四万八千年の寿命だったと。パーリ語で「四万八千」いう数字は大変響きのよい数字でして、おそらくこれはそれぞれの時期をぴったり四万八千年間生きたという意味ではなく「かなり長く生きていた」という意味ではないかと私は思います。でも、百年の寿命を四万八千年までたちまち延ばせることはないでしょうが。そこでなぜこんなに寿命が長かったのかといいますと、その当時の人たちは怒ったり、欲張ったり、嫉妬したり、怨んだり、後悔したり、嘘をついたり、不倫したりすることがなく、自然の流れのまま、明るく穏やかに生きていたらしいのです。夫婦間で子供をつくるときも強烈な欲情や執着はなく、ただ「子孫を残さなければならないから」という感じで。このように、何のストレスもなく穏やかな心で生活していたから寿命がものすごく長かったらしいのです。

頭の中にインプットされているもの


一般的に私たちは貪りと怒りと無知(貪瞋痴)の行為しか知りません。貪らず怒らず智慧のある行為(不貪・不瞋・不痴)は知るよしもありません。ですから皆さんに「欲は苦しみのもとです。捨てたほうがいいですよ」と説法すると、だいたいの人は「欲のない人生なんてつまらない」と、ちょっと嫌な顔をするのです。また「人の役に立つことをしなさい、困っている人を助けてあげてください」ということを話すときも、結構苦労します。多くの人は、ボランティアをしたり他人の役に立つ行為をすることは、ある特定の人がやる特別の行為だと思っているものですから、このようなことを話しても、すんなり理解していただけないのです。電車の中でお年寄りの方に席を譲るときでさえ「本当に譲らなければいけないでしょうか」と考えて考えて考えて、大変なことをするというぐらい悩むのだから。では、なぜそこまで悩むのかというと、私たちの頭の中には「善いことをする」というプログラムがインプットされていないからです。心の中では不貪・不瞋・不痴という考え方が存在しないのです。分かりやすく言いますと、たとえば道端に変わった形の小石が落ちていると、好奇心旺盛の子供たちは足を止めて、おもしろがって、それをじっと観察します。大人はこうはいきません。そんなものには目もくれず、小石があることすら気がつかないで通り過ぎていくでしょう。でもそこに百円玉が落ちていると、すぐに足を止めて拾うのです。これは、大人にはお金に対する欲望がインプットされていますから、お金を見ると自動的に反応するのですが、一円の価値もない小石のインプットはありませんから、まったく無反応になるのです。このように、私たちは貪瞋痴に対しては自動的に反応しますが、不貪・不瞋・不痴の考え方は無いために、善い行為をするとき大変苦労するのです。

どうやって能率を上げるか?


世の中では、従業員の能率が高まり、営業成績が上がって会社が儲かるなら、「貪瞋痴はよいもの」と考えています。以前テレビで見たのですが、ある会社で従業員のやる気を引き出すための対策として、いちばん営業成績の悪い従業員に、会社の従業員全員のボーナスを袋に入れるという仕事をやらせていました。Aさんには二十万円、Bさんには三十万円、Cさんには五十万円というふうに。それで自分の名前の袋はたった五万円だけ。なぜこのようなことをやらせるのかというと、成績の悪い従業員にわざと悔しい思いをさせて、やる気を引き出すためだというのです。確かにこのようなやり方をすれば、できの悪い従業員は刺激されて、頑張って仕事をするようになるかもしれません。でも、その頑張りはどこから来ているのでしょうか? 怒りと悔しさからです。「部下が五十万円も貰ったのに、なんで自分は五万円しか貰えないのか」と。このように、従業員の怒りや悔しさを煽って、やる気を起こさせるのは大変危険です。経営者と従業員の双方に過剰なストレスがかかり、会社がうまく機能しなくなるのです。

逆に、従業員の中には「自分はダメだ、自分は会社で必要とされていない」と考えて、意欲を失い、落ち込んで、仕事が手につかなくなる人もいるでしょう。従業員が仕事の意欲を失えば、それは会社にとって大きな損失です。そのようなとき、経営者は態度を一変させてこう言うのです。「悔しがらずに頑張りなさい。怒りは悪いものだ。怒りを捨てて仕事に集中しなさい」と。怒りや悔しさを煽ったのは自分なのに、もしそれがうまくいかず、従業員のやる気が向上しなければ、今度は正反対のことを言うのです。これが世の中のやり方です。貪瞋痴によって仕事の能率が上がるなら「貪瞋痴はよいもの」とし、能率が下がるなら「貪瞋痴は悪いもの」とするのです。会社の都合で、あるときはよいものに、あるときは悪いものになるのです。仕事を頑張るなら欲と怒りと無知は味方になり、仕事をしないなら敵になるのです。

火に油を注ぐ危険


世間では「ストレスのあるところに、さらにストレスを加える」という恐ろしいやり方をとっています。これは火に油を注ぐようなもので、事態をいっそう複雑にするのです。以前、ある方から「会社に行けなくなった、どうすればいいでしょうか」と相談を受けたことがあります。話を聞いてみると、その人は大変な怒りを抱えていて、上司が嫌だ、同僚が嫌だ、嫌な仕事が山積みになっている……と不平不満を並び立てるのです。私はその人に何のアドバイスもできませんでした。なぜならその人は私に「別の怒りを作ってほしい」と考えていたことが分かったからです。つまり「あなたは悪くありませんよ、嫌な人間関係に負けないで頑張りなさい」というふうに。この類のアドバイスは世の中の心理カウンセラーたちが一時的な対処法としてやっていることであって、仏教では、怒りを正当化して人のやる気を起こさせるようなことはやりません。仏教は「完治する方法」を教えています。ストレスを完治させるためには、心を客観的に観察しなければなりません。ですから、彼にアドバイスできることは「心を客観的に観てください。怒っているのはあなたではないですか。悪いのは、いかなる場合でも怒った人です」ということ。でも残念ながら誰も「自分が悪い」ということは認めたがらないのです。
(続きます)

A. スマナサーラ長老 
ストレス完治への道② 
心を直視する
文責:出村佳子


2010/04/11

知っているのは「主観」(刺激論4)

因果法則に則って観察する


なぜ私たちは「餌」に釣られるのでしょうか? なぜ誘惑されるのでしょうか?

それは、心が弱いからです。

魚は、目の前にミミズが泳いでいると、本能的にさっと飛び付いて、餌をパクリと食べます。

でももし餌を見たとき、ほんの一瞬でも「目の前にミミズがいるなんておかしい、なんか変だ、罠ではないか」と冷静に観察することができれば、いきなり餌に飛び付いたりはしないでしょう。

飛び付かなければ釣られずにすみますし、命を守ることもできるのです。


パーリ語に、ヨーニソーマナシカーラ(yonisomanasikāra, 如理作意)という言葉があります。

これは大変重要な言葉ですので覚えておくと役に立つでしょう。

ヨーニソー(yoniso)は「因果法則に則って、論理的に」という意味、マナシカーラ(manasikāra)は「観察する」という意味です。

そこでヨーニソー マナシカーラは「因果法則に則って観察する」という意味になります。

ヨーニソーマナシカーラが無いとき(論理的に物事を観察しないとき)、私たちは色・声・香・味・触・法のいずれかに引っ掛かって苦しみます。

一方、ヨーニソーマナシカーラがあるときには、心は冷静沈着ですから、安易に引っ掛かることはありません。何にも囚われず、自由に生きていられるのです。

したがって私たちが愚かな原因、混乱して苦しんでいる原因はただ一つ、ヨーニソーマナシカーラが無いということです。それだけなのです。

お釈迦さまは「ヨーニソーマナシカーラがあれば、すべての問題は解決する」と教えられました。物事を客観的に論理的に観察することができれば、すべてうまくいくのです。


「おまけ」に釣られる子供


他人が言ったことを鵜呑みにしてはなりません。

現代社会はマスコミや宣伝広告が発展しているため、私たちはさまざまな情報に、いとも簡単に釣られている傾向があります。

たとえば、ある菓子メーカーは「自分の会社だけが儲かればよい」と考えて、子供たちをかもにしています。

チョコレートやスナック菓子に「おまけ」として小さなカードを付け、子供たちを誘き寄せるのです。

メーカーが「カードは50種類ある」と宣伝すると、子供たちは必死になって集めます。

本当のところ子供は甘いお菓子なんか好きではないのです。でも「おまけ」は欲しい。できれば全種類。それでまんまと釣られて買ってしまうのです。

せっかく買ったのだから、ついでに甘いお菓子も口に入れます。

これを毎日続けるとどうなるでしょうか?

かわいそうに、虫歯や肥満糖尿病になって体を壊し、苦しむ羽目になるのです。

大人も同じです。テレビで「この食品は健康にいい」と聞くと、すぐにスーパーに行って買い込んだり、グルメ雑誌に「このレストランの料理は最高」とあれば、長蛇の列に並んででも食べに行ったり、ファッション雑誌に「今年の流行はこれだ」とあれば、自分に似合うかどうかも考えずに、高いお金を出して服を買い揃えるのです。

このように、私たちは簡単に宣伝広告に踊らされています。

本当に自分に必要なものを買っているわけではありません。

周りの情報に流されて、あちこちに走り回っているだけなのです。

商売する側も、そこを狙ってうまく騙しているのです。


なぜ観察しないのか?


情報が氾濫している現代社会のなかで、何にも引っ掛からず、何にも囚われないで生きることは、はたしてできるでしょうか?

できます。それは物事を客観的に観察することです。

しかし、残念ながら私たちは外界の情報に振り回されるばかりで、まったく観察していません。

なぜ観察しないのでしょうか?

それは「情報を楽しみたい」からです。私たちは「餌が楽しい」と思っているのです。

美しいものや面白いものを見て楽しみたい、きれいな音楽を聞きたい、よい香りを楽しみたい、おいしいものを食べたい、心地いい感触を楽しみたい、過去や未来のことをあれこれ考えて頭で妄想したい、と餌を楽しんでいるのです。

楽しいから、もう対象からは離れられません。夢中になって陶酔し、完全に囚われているのです。

そこで、色声香味触法の餌に釣られないためには、観察力を育てなければなりません。餌に飛び付く前に、ほんの一瞬、客観的に観察してみるのです。

これですべての問題が解決できるのです。


「餌」に釣られる仕組みとは


次に、どのようにして餌に釣られるのか、その仕組みについて説明いたしましょう。


人間には眼耳鼻舌身意の6つの感覚器官が備わっています。

皆さん、眼には何が入るか、ご存知でしょうか?

学校では眼に入るものは光だと教えているようですが、光は見えません。どんな強烈な光でも、光そのものを見ることはできないのです。

光のなかに埃や塵があると、それが見えるだけなのです。

ですから、眼に見えるのは色形のみ。色がないものに光を当てても見えません。

空気は見えないでしょう。空気には色がないからです。

眼(chakku)を開けると、外界の色形(rūpa)が眼に入ります。そうすると「見えた」という瞬間的な認識(cakkhu-viññāṇa, 眼識)が生じます。

これらの3つの条件(眼・色形・眼識)が揃ったとき、インパクト(phassa)が生じます。漢訳では「触」。現代風に言えば、インパクト。インパクトが生じたら、はっきり感じることができるのです。

でも、この時点ではまだ「何を見たか」ということは分かりません。ただ「触れた」ということだけで、人だとか、本だとか、花だとか、建物だということは、まだ分からないのです。

その後に「受」(vedanā)が生じます。

この受から「知る」(sañjānāti)という働きが現れます。

ここで、私たちはとんでもない誤解をするのです。単に「知った」というのではなく、「私が知った」と、突然「私が」という主語を入れて認識するのです。

事実は、眼に色形が触れて見えるという認識が生じた、それだけなのに、私たちは事実どおりに理解せず、「私が見た」と、何の根拠もなく主語を入れて認識するのです。


彼が感じるものを、彼は知る


「彼が感じたものを、彼は知る」と、お釈迦さまは説かれました。

彼が知っているものは彼が感じたものであって真実ではない、ということです。

私たちは眼で外のものを見ても、それをありのままに知るわけではありません。

自分が感じたものを知るにすぎないのです。

だからです、皆が同じものを見ても知識がバラバラなのは。

たとえば、ある人がXというものを見て「美しい」と言ったら、誰が見ても「美しい」と言うはずです。だけど、そうは言いません。

「汚い」とか「気持ち悪い」と嫌がる人もいるのです。

皆、見え方はバラバラなのです。

視力が弱い人と鋭い人の見え方は違うでしょうし、明るい所での見え方、暗い所での見え方、眼の水晶体が濁っている人の見え方、老眼の人の見え方、子供の見え方、皆それぞれ違うのです。

知っていますか、なぜ子供は単純なことにも、あんなに面白がって遊んでいるのかを。

子供は眼がすごくきれいで澄んでいるから、何を見てもインパクトが強いのです。

現代の子供たちはテレビやゲーム、漫画に夢中になっていますから感覚が鈍くなっているようですが、そうでなければ子供を楽しませることはすごく簡単です。

色紙を一枚あげただけでも、子供はワイワイと楽しく遊ぶのです。

同じ一つのものを見ても、人にはそれぞれ、その人なりの反応や感じ方があるということを覚えておいてください。

自分が知るものは、あくまでも自分が感じたものであり、けっして真実ではありません。

私たちは皆、主観の世界で生きているのです。

誰も「本当は何があるのか」分かっていません。

私たちが「見た」「聞いた」「嗅いだ」「味わった」「考えた」「知った」というものは、自分だけの感覚であって、真実の姿ではないのです。

(続きます)


A. スマナサーラ長老 法話
文責:出村佳子

『刺激論』目次


刺激論:スマナサーラ長老法話


2010/02/21

刺激の奴隷(刺激論3)


なぜ、私たちは「刺激の網」に囚われてしまうのでしょうか?

まずは、この言葉を覚えておいてください。スバニミッタ(subha-nimitta)。

スバ(subha)は「良い、幸福な、好き」という意味です。

ニミッタ(nimitta)は「対象」という意味で、見えるものや聞こえるものなど、感覚の対象(色声香味触法)のことです。

これら2つの語を合わせて、スバニミッタは「好きな対象」という意味になります。


魚を釣るとき、釣竿の糸の針先にミミズなどの餌を付けて、それを水のなかに入れます。

そうすると魚が寄って来て、ミミズをパクリと食べるのです。

しかし食べたらもう終わり。魚には自由がありません。人間に釣られて、殺されて、食べられるのです。生きていられません。

だったら、魚は針先に付いているミミズなんか食べなければいいでしょう。

ちょっと頭を使えば、ミミズが「私を食べて!」といわんばかりに都合よく自分の目の前で泳いでいるはずがない、と分かるだろうに。

でも、魚にはそんなことは考えられません。

目の前にミミズがいると、本能的に食い付くのです。


人間の場合も、何もしていないのに好物の食べ物が、いきなり目の前に現れるということはありません。

たいていの人は何か仕事をして給料を貰い、それで食べ物を買わなければならないのです。

それも、すぐには食べられません。食材を切ったり、煮たり、焼いたり、味付けをして、いろいろ手を加えなければならないのです。

そこで想像してみてください。もし一人暮らしの男性が、会社から帰宅したところで、テーブルの上に豪華な料理が並んでいると、どうでしょうか?「あーよかった、なんて私は恵まれているんだろう」と言って食べるでしょうか?

普通の人なら、これは危険だ、何かおかしい、とすぐに警戒するでしょう。


食わずにいられない目の前の餌


目の前にぶら下がっている餌を食べるのは大変危険です。

しかし魚は目の前にミミズが泳いでいると、食わずにいられないのです。

「餌を見たら、すぐに飛びついて食う」というのが魚の習性です。

これは魚だけでなく、すべての生命に備わっているものです。

どんな生命にも自分にとってのスバニミッタ、つまり「好きな対象」があります。

たとえば、魚にニンジンをあげてみてください。絶対に食べないでしょう。

あるいはきれいだからといって、バラの花をたくさんあげてみてください。何時間たっても食べません。

しかしミミズをあげると、さっと寄って来て食べるのです。


人間の場合、ミミズを見て「おいしそう」とは思いませんが、サンマを見ると「おいしそう、食べたい」と思うのです。

猫にニンジンをあげても食べませんが、魚、それも少し焼いてあげると喜んで食べます。

では、その魚をウサギにあげてみてください。見向きもしないでしょう。

ウサギにはニンジンやキャベツをあげなくてはならないのです。このように、生命にはそれぞれ「好きな対象」、言い換えれば「釣られやすい対象」があるのです。


日本人は西洋文化に釣られている傾向があるように思います。

西洋文化はすばらしいと思い込み、西洋人の真似をすればするほど現代的で進歩していると考えているのではないでしょうか。

たとえばバッグを買うとき、日本製のものは買わずに、西洋のブランド品をわざわざ買うのです。

日本には非常に質の良いバッグがありますし、特別注文をして自分の好きなデザインで作ってもらうこともできます。腕のいい職人さんも結構います。

なのに、日本製のものは買いたがりません。買うとしても値段が安くないと買わないのです。

でも西洋のブランド品なら5万円でも10万円でも平気で出します。

なぜでしょうか? それは「ブランド品を持っていれば自分が優雅で格好よく見える」と思っているからです。

こういう人たちは、いくら周りの人が止めても、お金があれば買ってしまいます。

完全に釣られているのです。


ケーキに釣られる子供


では、この10万円のバッグを子供にあげてみてください。どうでしょうか?

全然相手にしないでしょう。子供はブランド品には釣られません。

子供には子供なりに、どうにも我慢できない、目がないものがあるのです。

以前、あるお母さんが急に用事ができて、子供を叔母さんの家にあずけなくてはならなくなりました。

でも子供は嫌がって、なかなか行きたがりません。

そのとき叔母さんが一言「家にすごくおいしいケーキがあって、帰ってから食べようと思っているんだよ」と言ったとたん、子供はいきなり「じゃあ行く!」と言うのです。

今まで、絶対行かないと踏ん張っていたのに、ケーキがあると言ったとたん、コロッと態度を変えるのです。

メロンが好きな子なら「家にメロンがあるよ」と言えば喜んでついて行くでしょう。

このように、いとも簡単に自分の好物に釣られるのです。ケーキが好きな子はケーキに、メロンが好きな子はメロンに釣られます。

食べ物よりゲームやおもちゃに目がない子もいます。

「何に釣られるか」ということは、時代や年齢、性別、性格などによって異なります。たとえば20歳の人が釣られる餌と、80歳の人が釣られる餌は違うのです。

孫がおばあちゃんを楽しませてあげようと思ってディスコに連れて行っても、おばあちゃんにとっては大変な迷惑。それより、温泉にでも連れて行って、のんびりさせてあげたほうが喜ぶでしょう。


あなたは何に釣られやすいのか?


このように私たちにはどうにもならない「餌」があります。

仏教では、人間には全部で色声香味触法の6種類の餌があると説いています。

私たちはこれらの餌に引っ掛からないよう、注意しなければなりません。

そのためには「自分はどんな餌に釣られやすいのか」「何に引っ掛かりやすいのか」「何に弱いのか」ということを、はっきり知っておくことが大切です。

でも、自分の弱みを他人に知られたら大変です。うまく奴隷にされてしまいますから。

たとえば、ある人が失業してお金にすごく困っているとしましょう。そこへ誰かが親しげに近づいてきて、目の前で札束をちらつかせます。どうなるでしょうか?

心の弱い人なら簡単に奴隷になるでしょう。最悪の場合、お金をくれるなら盗みでも人殺しでもする、というところまで操られてしまうのです。

このように私たちには「弱い対象」があって、それに引っ掛かっています。

いつでも目の前にぶら下がっている餌に釣られて、奴隷になっているのです。

でも「自分が奴隷になっている」ということは、そのときは分かりませんし気づくこともできません。

たとえば、オートバイに夢中になっている若者は、学校をサボってまでオートバイで遊びに行こうとします。

親や先生たちにいくら注意されても全然耳を傾けません。

あるいは、オートバイが欲しいのに親が買ってくれなければ、殴ったり蹴ったり、暴力を振るいます。

ひどいときには親の財布からお金を盗んだり、家の通帳を盗むこともあるでしょう。

この若者にはオートバイ以外のことは見えません。

また、自分がオートバイの奴隷になっていることにも気づかないのです。


大人も同じです。美食家は食べ物の奴隷になっていますし、酒が好きな人は酒の奴隷になっています。

お金が好きな人はお金や仕事の奴隷になっています。

でも自分が「釣られている」ということにはまったく気づいていないのです。


なぜ気づかないのか?


恐ろしいことに、私たちは死ぬまで好きな対象、つまり「餌」に釣られて生きています。

スバニミッタは、率直に言うと「餌」という意味です。

餌と言うと、皆さんは食べ物のことしか頭に浮かばないかもしれませんが、仏教では、見えるものや聞こえるものなど、眼耳鼻舌身意に入るすべてのものを食べ物として考えています。

色声香味触法が、生命の食べ物なのです。

そこで、なぜ私たちは死ぬまで餌に釣られるのでしょうか?

なぜ刺激の網に引っ掛かっていることに気づかないのでしょうか?

それは「釣られる餌」がしょっちゅう変わっているからです。

若いときはオートバイが好きでも、死ぬまで好きかどうかは分かりません。

子供のときはおもちゃに釣られていても、中高生になるとゲームや携帯電話に夢中になるかもしれません。

他にも、音楽や映画、おしゃれ、旅行、グルメ、仕事など、釣られる餌は時間や年齢とともに次々変わるのです。

そのため「自分が餌に引っ掛かっている」ということには気づかないのです。

でも、過去のことなら分かるでしょう。「むかし若いときは馬鹿なことをやっていたなあ」と、40歳や50歳になったときに気づくのです。

そこでその人に「今はどうですか?」と訊いてみると、「今は大丈夫、何も問題ありません」と応えるのですが、それは嘘。今も、他のものに釣られているのです。

ただそれに気づいていないだけで、後になってから分かるのです。

これが生命の愚かさであり弱みなのです。

(続きます)


A. スマナサーラ長老 法話
文責:出村佳子

『刺激論』目次


刺激論:スマナサーラ長老法話




2010/01/21

生ごみより臭い妄想(刺激論2)


宝物か、生ごみか?


六つの感覚器官のなかで最も強烈な刺激の網は「意」です。

私たちは自分の考えや思考、意見に多大な価値を入れ、固くしがみついています。

「私の考えはこうだ」「これが私の見解だ」「私の意見は正しい」「あなたの意見は間違っている」などと。

でも結論を申しますと、自分の考えというものは単なる臭い生ごみで、何の役にも立たないものなのです。

思考も、意見も、見解も、概念も、知識も、どうということはありません。

しかし私たちは、これらを生ごみだと思うどころか、逆に、宝物のように大事に抱え込んでいます。

そしてそこから争いや対立など、あらゆる苦しみが生じているのです。


たとえばお姑さんが「うちの嫁はだらしなくて性格が悪い」と思っているとしましょう。

しかしそれはお姑さんの妄想であって、事実ではありません。

旦那さんは「良い妻だ」と思っているかもしれませんし、子供たちは「いいお母さん」と思っているかもしれません。

「嫁の性格が悪い」というのは、お姑さんの主観であり勝手な妄想なのです。

そしてその妄想が、嫁姑の関係をぎくしゃくさせ、家庭全体の明るい雰囲気を壊しているのです。


宗教間でも対立が絶えません。

同じ宗教のなかでも派閥争いがあり、互いに厳しく睨み合っています。

なぜでしょうか? 

それぞれが「自分の教えこそが正しい、他の教えは間違っている」と自分の教えを固く信奉しているからです。

そのため自分と異なる信仰をもつ人と話しをすると、意見の食い違いから、争いや対立が起こるのです。

たとえばプロテスタントの信者さんが、カトリックの神父さんに「プロテスタントの教えこそが正しい」と言ったなら、即座に追い出されるでしょう。「何を言うのか、あれは悪魔の教えだ」と。

普段は一般の人々に向かって「他人を憎んではいけません、喧嘩してはいけません」と教えている神父さんでも、実際には、自分の信仰や見解、概念の網に捕らえられて、苦しんでいるのです。


そこでこの苦しみを解決するためには「自分の考えは生ごみである」ということを理解して、自分の思考に対する執着を捨てることです。

そうすることで、対立や争いのない、平和で安穏な世界が現れるのです。


刺激論:スマナサーラ長老法話



なぜ、お化けが出るのか?


刺激の世界のことを仏教専門用語では、カーマチャンダ(kâmachanda)と言います。

カーマ(kâma)は「欲」という意味ですが、「欲の対象」という意味もあります。

具体的に言いますと、眼に触れる色や形、耳に触れる音、鼻に触れる香り、舌に触れる味、体に触れる感触、頭のなかで回転する概念のことで、色声香味触法のことです。

チャンダ(chanda)は「好む、気にいる」という意味です。
そこでカーマチャンダとは「色声香味触法が好きで気に入っている」という意味になります。

私たちは色声香味触法が好きで、常に何らかの刺激を追い求めています。

音楽を聴いたり、テレビを見たり、本を読んだり、ご飯を食べたり、仕事をしたり、運動したり。

そこでこれらの感覚の対象がなくなると、すごく寂しくなるのです。

たとえば、見えるものがいっぱいあるときは楽しいのですが、それが少なくなると寂しくなり、何も見えなくなると恐怖を感じるのです。

真っ暗闇は怖くありませんか? お化けはなぜ夜に出るのでしょう? なぜ昼に出てこないのでしょうか?

あれは暗闇から出てくる人間の恐怖感なのです

夜は暗い、暗いところでは何も見えない、見えないから怖い、だからお化けが出る、と思っているのです。

でも本当はお化けが怖いのではなく、眼から刺激が得られなくなったから怖くなったのです。

感覚の対象がなくなると、私たちはものすごく恐怖を覚えるのです。



恐怖の正体


これまで何人もの人に「わたしは恐怖感が強いのですが、どうすれば治りますか」という質問を受けました。

上司が怖い、姑が怖い、学校に行くのが怖い、職場が怖い、あれも怖い、これも怖い、どうすればいいのでしょうかと。

そこで私はまず「なぜ怖いのですか、何が怖いのですか」と聞き返して、本人にその問題を考えさせるようにします。

これで治る場合もありますが、だいたいは、「なぜ怖いのか」分からない人がほとんどです。


なぜ怖いのか、その答えを出しましょう。

この法話の始めにもお話しましたが、刺激を受けるということは、生きるということです。

とすると、刺激がないということは何を意味するでしょうか?

生きられないということです。

生きられないということはどういうことですか?

死ぬということです。

答えはこれです。私たちは死ぬのが怖いのです。

暗闇が怖いといっても、その根底にあるのは、死ぬのが怖いという恐怖感です。

お化けが怖いといっても、お化けに殺された人は一人もいません。

熊や人間に殺された人は大勢いますが、お化けに殺された人は一人もいないのです。

しかし私たちは熊や人間より、お化けが怖いと言うのです。これはまったくの屁理屈です。


本当のところ、私たちは刺激がないこと、つまり死ぬのが怖いのです。

楽しく賑やかにパーティーをしているところにお化けが出るとは誰も言わないでしょう。

でも暗闇の殺風景な墓場にはお化けが出ると言うのです。

刺激がなくなると、私たちは急に寂しくなって怖くなり、お化けが出ると妄想するのです。

しかし実際には、眼耳鼻舌身から刺激が得られなくなったから怖くなったのであり、さらにその根本原因は「死ぬのが怖い」という死の恐怖なのです。

心の一番底に沈んでいるのは「死にたくない」という恐怖です。

これには解決法がありません。

どんなに踏ん張っても、人は必ず死にますから。

他の宗教では「死んでも大丈夫、永遠の天国があるから」と言っていますが、仏教は「生命は必ず死にます」と真実を告げます。

嘘やごまかしは言いません。「みんな死にます」とはっきり言うのです。

そして「死ぬのが怖いなら、闇雲に脅えているのではなく、死んでも大丈夫という生き方をしたらどうですか」と、正しい生き方を教えているのです。

将来のことを妄想して脅えるのではなく「いつ死んでも大丈夫」という生き方をしてはいかがでしょうかと。


死の恐怖を乗り越える


そこで、生きるのが怖いとか、自信がないと悩んでいる人は、「自分は本当は死を怖れている」ということを理解してほしいのです。

人間は誰でも死にます。

私たちは今ほんのちょっとの間、生きているにすぎません。

生きれば生きるほど体が衰えますし、瞬間瞬間、死に近づいているのです。

どんなに良い家族に恵まれていても、仕事で成功して万事うまくいっていても、それはせいぜい80年か90年ぐらいのこと。遅かれ早かれ、必ず死ぬのです。

この事実を正しく観察することによって、私たちは恐怖や不安などの精神的な病気から解放されるのです。

でも私たちは、死の観察はやりませんし、やりたがりません。

死は不幸の象徴であり、不吉なものだと考えています。

誰かが死んだとき「○○さんが死んだ」とは言わないでしょう。「他界しました」とか「天国に行きました」と言うのです。

私たちは「死」という言葉さえ、口に出そうとしないのです。

でも死の恐怖を乗り越えたければ、死を観察するしか方法がありません。


そこで私たちは色声香味触法が好きで、瞬間瞬間何らかの刺激を求めています。「生きる」ということは「刺激を受ける」ということなのです。

ご飯を食べることも、服を着ることも、趣味や娯楽を楽しむことも、芸術や文化、哲学や宗教をつくることも、すべては人間が刺激を得るためにやっていることなのです。

しかし、どんなに刺激を得ても、私たちの心は満足しません。

いつでも「何か足りない、もっと欲しい」という思いが心に残るのです。

何かを得てもそれには満足できませんから、別の刺激を求めます。

それにも満足できませんから、また別の刺激を求めます。

このようにして私たちは限りなく刺激を求め続けるのです。

これが「カーマチャンダ」という病気で、すべての生命は、この網に引っ掛かって苦しんでいるのです。


そこで、超越した智慧の次元に足を踏み入れたい人は、カーマチャンダの網を破らなければなりません。

この網を破ったとき初めて、完全なる自由の世界が現れてくるのです。

(続きます)


A. スマナサーラ長老 法話
文責:出村佳子

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