2011/09/30

「美しさ」とは

 スリダンマ-ナンダ長老

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 美というものは非常に主観的なものである。
 あなたが美しいと思うものを
 他の人は醜いと言うかもしれない。
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 現代人の「美」の概念は、宣伝広告に大きく影響されています。しかし「美」というものは、その人がどのように見るかという見方の問題です。「蓼食う虫も好き好き」ということわざがあるように、何を美しいと思うかは人によって異なるのです。

 企業は、販売を促進させるために様々な戦略を用いて消費者たちの欲望を強引にあおり、流行や好みなどを大きく操っています。そして、美意識の強い女性や男性たちに、「美は基本的な人権である」として、美を追求させるようなレベルまで非現実的な期待を抱かせるように仕向けているのです。

 現代人の多くが探し求めている美しさは、内面の美しさではなく、外見の美しさです。それで、多くの人たち、とくに若者たちは、友人や結婚相手を選ぶとき、外見が美しい人とつきあおうとするのです。

 外見が美しい人のほうが、周りの人たちに高く評価されやすいですから、人はさまざまな手段を試みて、美しくなろうとしています。エアロビクスに行ったり、痩身法のコースに通ったり、美顔術で顔のしわを取ったり、流行の服を着たり、最新の髪型にしたりや化粧をしたり。このように、美しくなることに関してはとても敏感になっています。とくに体重がほんの数ミリグラムでも増えたら、すぐに気がつくのです。

 このように、私たちは一生懸命、外見の美しさを追い求めていますが、すべての人間に本来備わっている「自然の美しさ」のことは忘れてしまい、それが生かされることはほとんどありません。見失ってしまっているのです。現代において「自然の美しさ」がすっかり見落とされているのは、おそらく、手軽にすぐに美しく見せることのできる化粧品などが簡単に手に入るからでしょう。ファーストフードや、さまざまインスタントのものが出回っている現代、どこでも手軽に入手できるインスタント美容法や化粧品などに依存する女性たちが多くなってきているようです。


自然の美

 では、自然の美しさとは何でしょうか?

 それは、慈しみや思いやり、明晰さ、心の美しさのことです。数ある美容法や化粧品のなかで最も美しくなれるものは、慈悲の心です。これが自然の美しさです。お金はかかりませんし、必ず効果もあります。慈悲の心を持っている人は、化粧をしなくても、髪が整っていなくても、美しく見えるものです。

 たとえ外形がそれほど美しくなく生まれたとしても、慈悲と忍耐があれば、その人は光輝きますし、魅力的に見えます。慈悲と忍耐は、内面を豊かに輝かせるのです。そしてその内面の輝きが外に向かって放たれ、その人を非常に魅力的に美しく見せるのです。その人の身体からは特別な魅力としての美しさが自然に溢れ出していますから、大勢の人たちがその人に魅かれていくでしょう。

 「外見の美しさ」は、花が萎んでいくように消えていきますが、「内面の美しさ」には人の心を弾きつけるオーラがあります。内面が美しくなればなるほど、人は落ち着き、豊かで、美しくなるのです。

 他方、生まれつき容姿が美しく魅力的であったとしても、嫉妬深く、わがままで、ずるくて、うぬぼれが強い性格ならば、周りの人たちはその人から離れて行くでしょう。いわゆる、プライドが高くて気取っている人よりも、思いやりや慈しみを放ち、穏やかで丁寧に話しをする人のほうが、はるかに魅力的なのです。確かに外見の美しさは人々の注目を集めるでしょう。でも、それはどのぐらい長持ちするでしょうか? 長持ちしないのです。とくに心が汚れているなら、なおさら長持ちしません。外見の美しさは、すべてのものがそうであるように、すぐに萎れて消えるものなのです。「美貌はただ皮一重」(見た目の美しさは表面の皮一枚にすぎない︶ということわざは、まさに真実でしょう。

 それに対し、「慈しみの美しさ」は長続きします。そして、すべての生命に高く評価されるのです。

 だからといって、容姿が醜いことがいい、と言っているわけではありません。お釈迦様は、このようにも教えています。「地味で美しくない人(質素な服を着ている人)が聖者や善人だということではありません」と。大切なのは内面であり、外見の美醜ではないのです。

 世界は鏡のようなものです。笑顔で鏡を見れば笑顔が映って見えますし、怖い顔や怒った顔で鏡を見れば醜い顔が映って見えるでしょう。

 これと同様に、私たちが思いやりやあわれみをもって行動すれば、それと同じ善い性質のものが自分に返ってくるのです。心が道徳的で美しいなら、それは善い言葉や善い行為として、誰にでもわかるように、自然に外に現われます。その結果、おのずと善い結果が返ってくるのです。

 生まれつき容姿端麗な人は、自分は恵まれていると考えたほうがよいでしょう。お釈迦様は「生まれながらにして美しく顔立ちがよいことは幸福である」ともおっしゃっています。しかし、多くの人はその美しさのために、傲慢やうぬぼれを増大させ、その結果、周りの人たちに嫌悪され、心の幸福や精神の成長が妨げられているのです。

 お釈迦様は「美しさとは、外見ではなく内面の質です」と教えています。たとえ雄弁で、容姿が美しくても、嫉妬深く、わがままで、人を欺いているなら、その人は美しいとは言えません。真の美しさは、悪い心が完全になくなったときに現われてくるのです。

2011/09/02

When the machine takes over the brain…

The brain has infinite capacity;  it is really infinite. That capacity is now used technologically. That capacity has been used for the gathering of information. That capacity has been used to store knowledge — scientific, political, social and religious. The brain has been occupied with this. And it is precisely this function (this technological capacity) that the machine is going to take over. When this take-over by the machine happens, the brain — its capacity — is going to wither, just as my arms will if I do not use them all the time.


The question is : If the brain is not active, if it is not working, if it is not thinking, what is going to happen to it?  Either it will plunge into entertainment —and the religions, the rituals and the pujas are entertainment— or it will turn to the inquiry within. This inquiry is an infinite movement. This inquiry is religion.

Source: A Timeless Spring

2011/05/16

Our own worst enemy...

Our own worst enemy cannot harm us as much as our unwise thoughts.
No one can help us as much as our own compassionate thoughts......
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2011/04/25

ストレスの正体(ストレス完治への道 1)



皆様もご存知のように、仏教は「心」のことを説いています。魂のことでも神のことでもなく、心のことを細かく説明しています。説明だけではなく、具体的に悩みや苦しみを解決して心を清らかにする方法も教えているのです。なぜ苦しむのか、どうすれば苦しみの原因を減らせるのか、本当の幸福とはどういうものか、完全なる平安の境地とは何か、その境地に至るためにはどうすればよいのか、ということを、きめ細かく丁寧に説明しています。ところが、これほど膨大な量で信じられないほど厳密に心の分析をしているのに、仏教にはストレスに該当する専門用語がないのです。言葉がないということは、ストレスは昔の人にはなかったもので、近年突然現れた病気だということでしょうか? 鳥インフルエンザやエイズヴィールスみたいに解決法のない、どうしようもない現代特有の病気なのでしょうか? このあたりを一度考えてみたほうがよいのです。

ストレスとは何か?


まず「ストレスとは何か」ということを理解しましょう。現代心理学や医学の世界には「ストレスはこういうもの」という明確な定義があるでしょうか? おそらく、ないと思います。なぜかと言うと、ストレスを完全に解決する方法がいまだに見つかってないからです。民間療法や薬物療法、心理療法など治療方法はいろいろありますが、どれをとっても完全ではなく、「これっ」という的中した解決方法がありません。それぞれが「こーすればいいのではないか、あーすればいいのではないか」と暗闇のなかで模索している状態なのです。たとえばストレスが原因で頭痛や胃炎が続き、医者に行ったとしましょう。医者はいろいろな検査をしますが、脳にも内臓にも異常は見つかりません。そこでどうしようもありませんから、とりあえず身体に現れている症状を抑えるために何らかの薬を出すのです。常識で考えれば、病気の原因が分からないのに薬を出すというのは大変危険なことでしょう。でもストレスの場合は堂々とやっているようです。したがって、このポイントの結論として言えるのは、私たちは「ストレスとは何か」ということを理解していないために、その解決方法も分からないでいるということです。

楽しいときにもストレスがある


それでは、どのようなときにストレスがかかるのでしょうか? 一般的には、人間関係がうまくいかなかったり、過度に忙しかったり、嫌なことがあったとき、と考えられています。しかしそれだけではありません。楽しいことをしているときにもストレスはかかるのです。「今日一日遊び過ぎた、やらなければならないことがあったのに」と。有給休暇をとって温泉や海外旅行に出かける人も多いでしょう。そのときも心のどこかで「こんなにのんびりしていてもいいのだろうか、みんな一生懸命仕事をしているのに」と不安になり、あるいは逆に、休暇の最終日が近づいてくると「あー、休みが終わってしまう。明日からまた会社に行かなくては。もう二、三日休みがほしい」と、こうやってストレスを溜めるのです。それから、寝ることでもストレスはかかります。寝ればストレスは解消されると思っている人も多いでしょうが、寝てもストレスは解消されません。逆に「寝すぎてしまった」と自己嫌悪に陥るのです。何かに没頭して夢中になっているときにもストレスはかかりますし、退屈で何もすることがなくても、ストレスはかかります。退屈だと心が暗くなって元気がなくなり、落ち込んでしまうのです。

したがって専門家のあいだでは、ストレスは生きている限りずっとあるもので、ストレスのない人はいないと考えられています。もし嫌なことをやっているとストレスがかかり、楽しいことをやっているとストレスがかからないというのなら、ストレスを定義することができますし、それを解決することもできます。嫌なことをやめて楽しいことをすればいいのだから。しかしストレスは厄介なもので、そう簡単には解決できません。好きなことをしていても、寝ていても、何をしていても、ついてくるものなのです。

能率の低下


それから私たちは疲れたりイライラすると、今やっている仕事(あるいは、やらなければならない仕事)を中断して、別のことをやりたくなる傾向があります。たとえば会社で仕事をしているとき、ちょっと疲れてくると、気分を変えるためにお茶やコーヒーを飲んだりします。そして仕事に戻りますが、少し経つと、タバコを吸ったりガムを噛んだりします。そしてまた仕事に戻りますが、十分や二十分ぐらい経つと、今度はとなりの人にしゃべりかけたり、携帯電話を見たり、新聞を開いたりするのです。それでまた仕事に戻るのです。このように、私たちは仕事に集中しないで、やることをしょっちゅう変えています。それでどうなるかというと、仕事が途切れ途切れになりますから仕事の流れが分からなくなり、やる気もだんだん薄れて能力がなくなってしまうのです。さらには「自分にはこの仕事が向いてないのかなあ」と考えて、もっと落ち込むのです。

家庭の奥さんが夕飯のおかずに天ぷらを揚げているとしましょう。そのときに電話がかかってきたり、お客さんが訪ねてきたり、子供が泣きだしたりすると、そのたびごとに料理を中断しなければなりません。せっかく熱くなっていた油も、ほかの用事をしているあいだに冷めてしまい、また熱し直すところから始めなければなりません。このように仕事が途切れ途切れになると能率が下がりますし、このときにかかるストレスは結構大きいのです。

よいストレスと悪いストレス


私たちは「ストレス」と一言で言っていますが、楽しいときにかかるストレスと、嫌なときにかかるストレスは同じものでしょうか? 退屈なときにかかるストレスと、忙しいときにかかるストレスは同じものでしょうか? 仲の良い友人と話しているときにかかるストレスと、会社の上司と話しているときにかかるストレスは同じものでしょうか? 専門家のあいだでは、ストレスには二種類あり、心身に悪い影響を与える悪いストレスと、善い影響を与える善いストレスがあると考えられています。過労や不安、人間関係のトラブルなど嫌なことがあるときにかかるストレスが「悪いストレス」で、希望や目標をもって何かに取り組んだり、感動したり、楽しんでいるときにかかるストレスが「善いストレス」とみなされています。しかし仏教の立場から見れば、先ほども説明しましたように、楽しんでいるときのストレスも「悪いストレス」のカテゴリーに入るのです。

そこで、仏教では次のように考えています。善いストレスとは、人格が向上する衝動のことです。「こんな調子ではだめだ、前進しなくては、成長しなくては」という、いてもたってもいられない状態になるのが善いストレスです。緊張感や緊迫感のようなポジティブな衝動で、破壊的な悪いストレスではありません。一つ分かりやすい例をあげますと、夜、家ですやすや寝ているとき、やけに熱さを感じて目が覚めたとしましょう。目を開けると、壁やタンスに火がついてパチパチと燃えています。あっちこっちから火が燃え上がり、家の消火器ではもう手遅れ。もう手に負えません。そのとき、普通の人は混乱して動揺して、消防署の電話番号まで忘れてしまい、どうすればよいのか分からないまま、ただうろたえるだけでしょう。そこで、頭のよい落ち着いている人はどうするかというと、状況を瞬時に把握して、安全な場所を見つけだし、さっと逃げるのです。この「逃げよう」という緊張感が善いストレスなのです。仏教の世界では、説法するとき、時々ものすごくストレスがかかるように話をすることがあります。脅迫するような感じで、聞いている方々に、いてもたってもいられなくなるような状態をわざとつくるのです。「では、あなたはどうしますか」と。そうすると、勇気のある人は「逃げる」気持ちになるのです。解脱を決めるのです。それで解脱するのです。このときにかかるストレスは並大抵ではありません。究極のところまで追い込まれて、巨大なストレスを感じないと、悟りには至れないのです。

したがって「人格を向上させよう、心を清らかにしよう、善い行為をしよう」と自分を奮い立たせるポジティブな衝動が「善いストレス」で、それ以外のストレスは「悪いストレス」だと仏教では考えています。

ストレス=貪瞋痴


冒頭でお話した「なぜ仏教にはストレスに対する専門用語がないのか」という質問に対する答えをお出ししましょう。仏教から見れば(悪い)ストレスとは、貪りと怒りと無知のことです。ですから、仏教にはあえてストレスに対する専門用語がないのです。「ストレス=貪瞋痴」だと理解すれば、ストレスを明確に理解することができますし、それを解決する方法も見えてくるのです。(続きます)


A. スマナサーラ長老 
ストレス完治への道① ストレスの正体

文責:出村佳子

2011/04/24

自己中心を乗り越える

自分がされなくないことは、他人にすべきではない。
自分がしてほしいことを、他人にすべきである。

これは古いことわざですが、現代になっても当てはまります。
この言葉にならって、私たちは「自分のことだけしか考えず、他人のためには何もしない」
という自己中心的な性格を乗り越えるべきでしょう。

スリダンマーナンダ長老

2011/04/22

It's your thoughts...

It's your thoughts and beliefs,
not your current situation,
that determine which way you go.......



2011/03/21

幸せ

幸せはどこにあるのでしょうか? 
お釈迦さまは 「あなたの心です」 とおっしゃいました。

生命がいちばん欲しがっているものは、幸せです。
このことを否定する人はいないでしょう。

しかし、幸せは簡単に得られるものではありません。
幸せは、物質にたいする欲望や
感情(貪り・怒り・無知)に依存することをやめたとき、
得られるのです。

スリダンマナンダ長老

2011/03/15

慈しみの思考

「慈しみの思考」 が 幸福の鍵です。
どんな人にも 「慈しみを与え 慈しみを受けとる」と いう潜在能力があります。
人間は 潜在的に 「慈しみの宝庫」 です。
慈しみの思考で、正しくものごとを考えているなら、心の幸福が得られるでしょう。

スリダンマナンダ長老

2011/03/11

心の制御

怒ったとき、
その怒りに気づかなければなりません。
自分を怒らせた相手や対象に注意を向けるのではなく、
怒りを一つの心の状態として観察するのです。

怒りを観察して分析できるよう、
心を訓練しなければなりません。
自分の心を 絶えず分析する訓練をおこなうことによって
「自分は心を制御できる」
という大きな自信が育ちます。
そして、愚かで理性のない行為はやらなくなるでしょう。

スリダンマナンダ長老

2011/02/16

運勢

意志の弱い人は、
運勢や占いをすぐに信じます。
信じたり、恐れたりすることから、
失望、苦痛、緊張、ストレスが生じるのです。

意志の強い人、勇気や智慧、自信のある人は、
運勢の奴隷にはなりません。
さまざまな困難を 自分克服し、
人生を成功させるのです。

~スリダンマナンダ長老

2011/02/08

心を育てたい?

人々は世界の平和を願っています。
しかし、一人ひとりが自分の心で戦っているかぎり、
世界に平和が訪れることはありません。
平和を実現させるためには、
まず、自分の心を育てる必要があるのです。

「どのように心を育てればよいのですか?」
と訊ねる人もいるでしょう。
これは合理的な質問です。
でも、もっと大事な質問は
「自分は本当に心を育てたいのか?」
ということです。

もし確信をもって 「はい」 と答えられるなら、
確実に心を育てることができるでしょう。

~スリダンマナンダ長老

2011/02/06

幸運・不運

幸運と不運 …… 運を信じることは 大勢の人にとって ごく普通のことです。
私たちは、不意にやってくる善いことを 「幸運」だといい、
悪いことを 「不運」だといって、ものごとを運のせいにしがちです。
これは、業(ごう)の法則や 現象の本質を理解していないからです。

お釈迦様は このように説かれました。

 善いことが起こるのは 善い原因があるからであり
 悪いことが起こるのは 悪い原因があるからである
 これが業の法則である

悪いことに遭ったとき、それは今生か過去世で
自分がおこなった悪い行為の結果にほかなりません。
ですからそれを、運が悪いといって 運のせいにすべきではありません。
正しく言うなら、過去の悪行為の結果を受けている、ということなのです。

業の法則を理解している人は、
ものごとを運のせいにする という間違いはしません。
なぜなら 起こることはなんであれ、原因の結果、
つまり 過去で自分がおこなった行為の結果だということを知っているからです。

このように、善い生き方から生じる幸福も、
悪い生き方から生じる不幸も、
結局は 自分の行為に原因がある と理解できるのです。

運というものはありません。
成功するか失敗するかは、自分の行為しだいなのです。

~スリダンマナンダ長老

2011/01/09

両 親

両親は梵天であり、最初の先生であり、尊敬するに値する人である。

賢者は 両親を尊敬し、食べ物と飲み物をさしあげ、
服を着させ、寝させ、身体と足に油を塗り、洗ってあげる。

このように両親に仕える賢者は
この世で称賛され、死後 天界におもむく。

2011/01/08

食べるときの瞑想

「食べること」は 私たちの日常生活の中の一部になっています。
おいしいから食べる、健康にいいから食べるというだけでは、
智慧は育ちません。
テーラワーダ仏教では、
食べることも 心を育てる修行の一つとして教えています。

まず、食べ物を見たとき、「見えた」 と確認してください。
お椀を持つときには 「持ちます」、
お箸で食べ物をとるとき 「とります」、
口に運ぶとき 「運びます」、
口をあけるとき 「あけます」、
口に入れたとき 「入れました」、
かむとき 「かみます」、
のみこむとき 「のみこみます」 などと確認します。
このように、食べることの一つ一つの行為を確認することで、
智慧が現われるでしょう。

シンガポールの長老より

2010/12/21

8つの立派な性格

ハッタカ・アーラワカ (Hattaka) は、大変人気のある若者で、500人もの仲間を統率する立派なリーダーでした。お釈迦様は比丘たちに、「ハッタカは稀有で立派な性格を8つ身につけています」 と話しました。その8つとは、

 1.仏法僧に対して確信がある(Saddha )
 2.戒律・道徳が完全に身についている(Silava )
 3.悪行為をするのを恥じる(Hirima )
 4.悪行為をするのを恐れる(Ottapi )
 5.学識がある(特に仏教に対して)(Bahussuto )
 6.施す(Cagava )
 7.お釈迦様が説く真理を理解している(Punnaya )
 8.少欲(Apiccho )

2010/12/01

道徳

財産は 家を美しく、豪華に飾るが  
人を美しく、立派にするのは 道徳 である
服は 身体を美しく飾るが 
人を美しく、清らかにするのは 善い行為 である

外見をいくら飾っても 立派な人間にはなりません。
心を清らかにし、道徳的な生き方をすることによって、
人は立派な人間になるのです。

地位、階級、肌の色、財産、権力が 人を立派にするのではありません。
人を価値ある立派な人間にするのは、道徳です。
  
~スリダンマナンダ長老

2010/11/29

リンカーン

善いことをすれば幸福になる
悪いことをすれば不幸になる
これがわたしの宗教である

~エイブラハム・リンカーン

2010/11/25

自己に打ち克つ

自己に打ち克つことは
他人に勝つことよりも優れている
神も、悪魔も、梵天にも
常に自己を制御し おこないを慎んでいる人の勝利を
打ち負かすことはできない

~ダンマパダ

2010/11/01

何のために戦うのか?

人類の歴史は、貪欲、憎悪、傲慢、嫉妬、わがまま、妄想などが 絶え間なく表面化してきた混乱の現れです。過去3000年間に 人類は大きな戦争を 15000ほど起こしたと言われています。
戦うことは 人間の特性なのでしょうか? 何のために戦うのでしょうか? 人間はなぜ同じ仲間である人間を殺すのでしょうか?
私たちは、攻撃性という本能に従うべきではありません。
そうではなく 幸せになるために、賢者が説く智慧の教えに耳を傾け、道徳的な行為をとるべきです。
 
~スリダンマーナンダ長老