2012/04/26

ストレス完治への道〈もくじ〉

スマナサーラ長老法話

1 ストレスの正体
2 心を直視する
3 感情の入れ替え
4 感情のルーレット
5 慈しみの心で人生を縫う

気づくこと

ヴィパッサナー瞑想とは、気づきの実践です。
今起きていることに、気づくことです。

もし 何かに夢中になっていて、
それをやめることができないなら、
それに「気づく」ようにしてください。
それも、自分です。

「気づく」ことによって、
私たちは自己を発見する旅に
一歩前進することができるのです。

グナラタナ長老


2012/03/17

智慧と善行為(4)


生命のネットワーク


「生きる」ということは「行為をする」ということです。そして、その諸々の行為は互いにネットワークをつくって働かなくてはなりません。行為というものは、いつでもそのように働いているのです。

私たち一人一人は、社会ではたいしたことをやっていません。会社で仕事をしていても、一人一人は本当につまらないちっぽけなことしかやっていないのです。

でも、全体的に見ると、社員が互いに調和して仕事をすることによって、会社という大きなシステムができあがっているのです。

たとえば航空会社は大規模な会社ですが、一人一人を見ますと、それぞれはほんの小さな仕事しかやっていません。機内の乗務員さんたちがやっていることは何かというと、ドアを開けたり閉めたりするとか、アナウンスをするとか、飲み物や食べ物を配るとか、お客さんがシートベルトを締めているかチェックするとか、その程度のことです。ものすごくつまらない仕事でしょう。でも、その仕事がないと全体が壊れてしまうのです。

もし乗務員さんがいなかったら、お客さんは勝手に座って足をあげたり、俺は恐くないからシートベルトはしないぞと言って立ち歩いたり――。そんな勝手なことをすると、大変危険です。ですから乗務員さんはとても大切な仕事をしているのです。

それから飛行機から全員降りたところで、今度は清掃員さんたちが乗ってきます。サッと掃除をして機内をきれいにし、忘れ物でもあったら所定のところに届けます。
 これもつまらない仕事ですが、全体的に見ますと、なくてはならない仕事なのです。

同様に、私たちの身体の内部でも一個一個の臓器が働いていますが、それぞれはたいした仕事はやっていません。でも全体的なネットワークになりますと、それぞれが欠かせない仕事をしているのです。

たとえば心臓は収縮と拡張の動きをただ単調にくり返すだけのポンプの働きで、本当につまらない仕事しかしていません。でも全体的に見ますと、全身に血液を送りこむという命に直接係わる大変重大な仕事をしているのです。

そういうことで、つまらないことだと思われる行為でも、システム全体からみると欠かせない役割を果たしていることがわかります。

それで、会社であれ、社会全体であれ、この一個の身体であれ、一つ一つの行為が全体的なシステムを支えているということが理解できます。

個人の人生のみならず、社会全体が調和して平和に繁栄しつつ生き続けるためには、私たちは自分に与えられている小さくてつまらない行為を大事に行わなくてはいけないのです。

善行為とはこのようなものだと理解してください。

会社でつまらない仕事を割り当てられても、なんでこんなくだらない仕事をやらなくちゃいけないのかと考えて仕事をさぼったり、腹を立てたり、いい加減にやったりすると、それは明らかに悪行為になります。 家庭でも同じことが言えます。

社会全体の調和と繁栄を壊す行為は、当然、悪行為なのです。

人生は善行為をするか悪行為をするかということで成り立っています。「善行為をすべき」ということは、いうまでもありません。

善行為をすると、人生はうまくいきますし、他との調和もきちんと保たれるのです。 

 (続きます)

 
 根本仏教講義「智慧と善行為④」
スマナサーラ長老法話

2012/03/03

智慧と善行為(3)


調和し、補い合い、協力する


最初に、二つ問題を出します。

一番目の問題は、善行為・悪行為というのは本当に世の中にあるのでしょうか? ということです。

皆さまはおそらく考えたことがないと思います。この答えはいったん置いておいて、次の問題にうつります。

「生きる」とは、どういうことでしょうか?

生きている上での行為です。生きている人が善行為や悪行為をするのですから、「生きている」ということが一番大事になります。

「生きている」ということを忘れてはなりません。世の中の人はそこを忘れているようです。それでさまざまな犯罪が現れてくるのです。

「生きている」ことが土台であって、その土台を壊すべきではありません。土台を壊すことは、明らかに愚かな行為でしょう。これは、立派な家を建てて、そのあと家の下から穴を開けて土台を壊すようなものです。土台を壊すと、建物全体が崩壊します。それでは話になりません。

私たちは何をやるにしても、まず「生きている」のです。
シンプルに聞こえるかもしれませんが、これはとても大事なことです。
生きているから話します。何を話すかというのは、後の話で、生きていなければ話すという行為もありません。善行為も悪行為もないのです。


「生きる」ことの中身



そこで、「生きるとは何か」ということをまず考える必要があります。
でも、むずかしく考えたら困ります。世界の誰にもその答えを見つけることはできませんでした。お釈迦様以外、誰にもできなかったのです。

「生きる」ということは「行為をする」ということです。
私たちは無数にさまざまな行為をしています。意識的であろうが無意識的であろうが、さまざまな行為をしているのです。

呼吸をする、生きているからです。
体内に血液が流れる、生きているからです。生きていなければ、そんな行為はありません。
見る、聞く、話す、すべてが行為です。
座る、歩く、食べる、寝る、考える、呼吸する、大小便する、運動する、働く、休む、いろんなことをやっています。
これらは全部、生きているからやっていることです。

「生きる」ことの中身を見てみると、「行為」しかないのです。行為以外は何もありません。

ですから、「生きる」ということの箱を開けて、その中身を見てみる必要があるのです。

私たちは箱のふたを開けないで、「命は神様から授かったものだ」とか「尊い魂だ」などと言っています。

箱を開けないでいて、箱の周りでいろいろな意見を言っても、それはまったく意味がないのです。

そこで、箱のふたを開けてみます。そうすれば一発で中身がわかるでしょう。もう推測する必要も議論する必要もありません。

お釈迦様は「生きる」という箱のふたを開けてみたのです。開けてみたら、すべて行為のみ。呼吸することも行為ですし、考えることも行為、見ることも行為、聞くことも行為です。私たちはそれに「生きる」と言っているのです。血液が流れることも行為ですし、細胞一個一個がいろんな行為や働きをしています。その働きが止まったら「死」です。

ですから「生きる=行為」です。たくさんの行為があるでしょう。行為をするのは、生きているからなのです。



その行為は善か悪か?



次に、行為は善か悪か、ということを判断しなければなりません。

判断は簡単です。
生きることを破壊する行為は悪行為です。
たとえば、「生きる」というシステムの中で一個の組織、あるいは一個の細胞だけが調和を乱して勝手に反対の行為をするとしましょう。どうなるでしょうか? 

全体が徐々に壊れていくのです。生命は「生きる」という行為の箱の中で、呼吸をしたり、食べたり、消化したりなど、さまざまな行為をしています。あらゆる行為が互いに調和して支え合い、補い合って働いているのです。

どんな細胞にも,酸素が必要です。もしすべての細胞が酸素を探しにどこかへ勝手に行ってしまったらどうなるでしょうか?

困ります。身体に細胞がいなくなってしまいますから、身体全体が機能しなくなってしまうのです。

細胞にはそれぞれ仕事があって、それぞれ別々の役割を担っています。
たとえば、肺は酸素をとり込んで二酸化炭素を排出するという働きがあります。そこで調和して仕事をしているのです。

肺には酸素が入りますが、その酸素を身体中に運ぶものが必要になります。その役割を、血液が担うのです。
細胞が生きるためには栄養素も必要です。もし細胞が「お腹がすいたからどこかへ食べに行くぞ」と言って、勝手に自分の持ち場を離れてしまったら、話にならないでしょう。
何かが栄養素を運んであげなければなりません。そこで、運送屋の血液が栄養素も運ぶのです。

では、廃棄物はどうしますか?
それも血液が排出器官まで運んでくれます。このように血液はものの見事に酸素や栄養素を運び、いらないゴミは体外へと運んでくれるのです。

もし、この血液がストを起こしたらどうなるでしょうか?
仕事しなかったら? 
自分の仕事をストップした時点で、そちらの細胞は壊死してしまうのです。

これでおわかりになると思いますが、身体の中の行為がお互いに調和して、補い合って、協力し合って働いている場合、私たちは何のことなく健康で無事に生きていることができます。

このシステムにちょこちょこと異常が起きてしまうと、健康は崩れてしまうのです。

正常な細胞には、寿命というものがあります。自分の役割を終えたら死滅し、新しい細胞と入れ替わるのです。

しかし、ときどき新しい細胞が次から次へと生まれる場合もあります。古い細胞と入れ替わるためではなく、勝手にどんどん増え続けるのです。これが「がん細胞」と言われるものです。

がん細胞のほとんどは、死滅することなく激しいスピードで増殖を繰り返していくのです。

「成長する」ということは一般的に悪いことではありませんが、がん細胞が成長するのは困ります。なぜかというと、がん細胞は他の細胞と調和していないからです。

たとえばケガをしたとき、その傷口では新しい細胞がすごい勢いでできあがって、みるみるうちに傷口を補ってくれます。それはすごい速さです。それから、ストップします。傷口がきれいに治ったところで、ストップするのです。そこに調和があります。

もし新しい細胞が生まれるは生まれるは、きりがなく生まれて止まらなかったら、でっかいデキモノができます。これを「がん」と言うのです。



調和することは善行為



「生きる」ということは「行為をする」ことで、その行為は互いにネットワークをつくって、調和し、補い合い、協力し合って働くということが決まっています。
そうでなければ、生命は壊れてしまいます。
そこで、「善行為・悪行為」ということが成り立つのです。これが、最初に出した質問「善行為・悪行為は本当にありますか?」の答えです。

善行為・悪行為は本当にあります。成り立ちます。
生きることは行為をすることであり、その諸々の行為が調和して働いている場合は「善行為」、調和していない場合は「悪行為」なのです。

私たちは毎日ごはんを食べなければなりませんが、何を、どれぐらい、どのように食べればよいのでしょうか? 

ちゃんと調和して食べなければならないのです。
もし「今日は腹いっぱいお肉を食べよう!」と、食べ過ぎて具合が悪くなって病気になった。これは悪行為です。調和を壊してしまったのです。

また、おいしいからといってチョコレートやケーキなど甘いものばかり食べていると、調和が崩れて糖尿病などの病気になります。ですから、欲張って食べることは悪行為です。

仏教は結構厳しいのです。
皆さまは、大胆に他の人々を助けることだけが善行為だと思っているかもしれませんが、食事の量を適量に抑えることも善行為です。
食べ物を身体に適量摂ることで、身体はうまく調和を保って働くことができます。これが善行為です。
多食や偏食は悪行為なのです。

この「調和を保つことは善行為である」ということを理解することが、智慧です。
ですから、世の中でやっている大胆な善い行為だけが善行為ではありません。
どこかの施設にいる子供たちに匿名でランドセルを50個送った、というのは当然善い行為ですが、善行為はそれだけではないのです。

では、その人の行為が私たちにとって派手に大きく見えるのはなぜでしょうか? 

それは、私たちがあまりにもお金にべったり執着しているからです。本当は他人に1000円もあげたくないほどケチなのです。それで「誰かがランドセルを50個も送った」と聞くと、びっくりしてニュースになり、派手に大げさにそれを報道する。寄付した側からすれば、自分にはお金がちょっと余分にあるから子供たちに何か買ってあげたほうがいいんじゃないか、とそのぐらいの気持ちでやったことだと思いますが。

善行為は、大胆な行為だけではありません。
自分の身体に必要な量だけ食べること、これも善行為です。反対に、必要な量よりも多く食べたなら、それは悪行為なのです。(続きます)

 根本仏教講義「智慧と善行為③」

2012/02/24

智慧と善行為(2)


智慧のある人とは


善い人か悪い人か、智慧のある人か愚か者か、ということは、「生命にたいしてどれぐらい慈しみの行為をするか」というところで測られます。

どんな大学を出たかではありません。博士号を三つも持っているとか、肩書きはどうでもよいのです。

大学を卒業していなくても、大勢の人々のために役立つ活動をする人はいくらでもいますから。

共に生きている仲間をどれぐらい助けてあげるか、人々の生活をどれぐらい楽にしてあげるか、人々の苦しみをどれぐらい減らそうと頑張っているか、このように自分のことを後回しにして頑張る人というのは、当然立派な人です。

その人のことを「智慧のある人」というのです。

 
定義は簡単です。
「慈しみのある人が智慧のある人で、慈しみのない人が愚か者」ということです。



世の中で犯罪を起こす人たちも、当然、俗世間の知識はあります。知識がなければ、テロ行為はできないでしょう。高度な知識がなければ、計画をたてたり組織をまとめたりすることはできないのです。



愚か者か智慧のある人かということは、一般世界ではいろいろな定義があるでしょうが、仏教では「慈しみがあるか否か」というところで測ります。



生命を慈しむ人が、智慧のある人です。何の差別もなく、民族的にも、宗教的にも、経済的にも、何の差別もしないで、とにかく生命を慈しむ、それこそが立派な人間なのです。


善行為の目的



「善行為」ということについて、どの宗教でも、一般社会でも、「善行為をしましょう」と言っています。

仏教でも「善行為をしましょう」と言っています。しかし、仏教の場合はちょっと違います。「智慧を開発しなければ意味がない」と言うのです。

いわゆる、いくら善行為をしても、やっただけでは意味がありません。

何かをやるならば、何らかの目的が必要ですし、その目的に達しなければならないのです。

たとえば飛行機でハワイへ行って、次の便で日本に戻って来たとしましょう。それで「私はハワイに行って来た」と言う。
でも、それでは何のためにハワイに行ったのかわかりません。意味がないのです。
ハワイに行くなら、何か目的があるはずです。ビジネスで行くのか、観光で行くのか、どこを訪問するのか、何を見るのか、どんな遊びをするのか、そこで計画をたてて行って、行った目的を達成したなら、その人には「私はハワイに行って来た」と言えるのです。飛行機に乗って往復しただけでは何の意味もありません。

同様に、善行為をしただけではあまり意味がありません。何か目的を設定して、その目的に達しなければ意味がないのです。

仏教が設定する目的は、「智慧を開発することです。

もし、善行為をしたけれども智慧は何も開発しなかった、というならば、「ご苦労様」ということで終わってしまうのです。
 (続きます)

  根本仏教講義「智慧と善行為②」

2012/02/18

智慧と善行為(1)



智慧が開発するか否か



善行為って何でしょうか?

社会では「善行為をしましょう」ということは当たり前になっています。

仏教でも、そのように言っていますが、仏教では善行為のことは、そんなに大げさにしていません。

一番ポイントにしているのは「智慧が開発するか否か」ということです。

仏教の教えは「智慧の教え」ですから、「智慧」のことばかり教えています。他にも道徳など教えは大量にありますが、智慧が一番上にあって、他の教えは飾りのようなものです。智慧が王冠です。智慧があれば、他のものはいっしょに付いてくるのです。

なぜ、智慧が一番大事なのかといえば、これには理由があります。

「智慧がない」ということは「無知」ということです。無知で幸せになるということはありませんし、無知だから成功したということもありません。

お釈迦様は、「災難や危害、苦難などの不幸というものはすべて無知、あるいは愚か者から生じるのであって、智者からはいかなる苦しみも起こりません」とおっしゃっています。

ですから、この世の中で何か不幸なことや理不尽なこと、不公平なこと、人々に不幸を招くことが起こったならば、その手綱を握っているのはいつでも誰か愚か者なのです。

世の中には危険なことがたくさんあります。
テロ行為や戦争、暗殺、人殺しなどがありますし、強盗や詐欺、ごまかしなどもあります。いろいろな恐ろしいことがあります。きりがありません。そこで不公平なことや災難、苦難に陥る出来事があったならば、それは必ず無知な人の仕業なのです。

では、そうした無知な人たちは知識がない愚か者なのでしょうか? 
たとえば綿密な計画をたててテロ行為をする人たちはバカでしょうか? 

実は、彼らは結構勉強している優秀なエンジニアや科学者たちです。貧乏人でもありません。豊かで、勉強している知識人たちです。ですから、本当に愚か者でしょうかという疑問がでてきます。

仏教では、大学で知識を学んだから、有名大学を卒業したからといって、智慧のある人だとは言いません。

「やっている行為は何ですか」というところを見るのです。

智慧というのは、科学や工学、経済学などの知識を学んで得られるものではありません。知識を得ても、愚かなままなのです。

どこで愚かと決めるかといいますと、「生命にたいして慈しみがない、どうなってもいい」と生命のことを心配しない人のことを、「愚か者」というのです。

たとえば原子爆弾を開発して、さらに高性能のものを開発した科学者たちは、私たち凡人よりはずいぶん勉強ができる知識人たちでしょう。

彼らは一流の大学を卒業した人たちばかりですが、実際は極限的な愚か者です。なぜなら、人類に多大な危害をもたらしているのだから。

彼らに関心があるのは、自分の研究だけで、研究データが出るか出ないか、それだけに関心があるようです。放射性物質があちこちに拡散したとき、言うことは「では、放射性物質がどのように人体に悪影響を与えるかを調べましょう」と、それだけ。「人類に多大な危害を及ぼすこんな恐ろしいものをつくってはいけない」とは言わないのです。

ですから、大学の研究室でずっと研究しているからといって、肩書きが1メートルぐらいあるからといって、その人が智慧のある人だと絶対に思わないでください。

生命のことを心配するか、生命のために何か役立つことをするか、人類の模範になるような人物か、若者たちがモデルにした方がいい人間か、必要なのはこうしたことなのです。
 (続きます)


2011/12/27

預流果に覚る条件(最終)


マハーナーマ経


三番目の経典があります。

これはこれまで説明してきました一番目と二番目の経典と同様、釈迦族のマハーナーマさんのエピソードを用いて、別の表現で「預流果の特色」を説明している経典です。

経典の初めのところは同じですので省略いたします。


マハーナーマさんが、同じ釈迦族のゴーダさんのところへ行き、質問するところから始まります。

マハーナーマさんもゴーダさんも預流果に覚っていましたから、預流果同士の会話です。

ただ同じ預流果でも、人によって言葉の表現上、微妙に個人差があるのです。

でも中身や内容は同じで、預流果に覚っているという事実に変わりありません。

それをこの経典で説明しているのです。


預流果に覚る条件『マハーナーマ・スッタ』



釈迦族のマハーナーマが釈迦族のゴーダのところへ行き、このように言いました。

「ゴーダよ、あなたはどのように思うか。どのぐらいの特色(能力)が身に付けば預流果だと言えるか。堕落せず確定して解脱へ向かうのか」


ゴーダは答えました。

「私は三つだと思う。三つの特色が身に付けば預流果だと思う。仏陀にたいする揺らぎない信と、法にたいする揺らぎない信と、サンガ(僧・僧団)にたいする揺らぎない信を確定していることである」


ゴーダさんは「仏法僧にたいして揺らぎない信が確定していれば預流果です」と言いました。

いわゆる、仏陀の九つの特色と、法の六つの特色と、サンガ(僧・僧団)の九つの特色は「そのとおりである」と、しっかり確信していることです。

ゴーダさんは自分が預流果に覚っていて、自分の経験から語っているのであり、他人から聞いた話をただ言っているわけではありません。

自分の預流果の状態を、そのように説明したのです。


次に、ゴーダがマハーナーマに尋ねました。

「あなたはどう思うか。どのぐらいの特色が身に付けば預流果だと言えるか」


マハーナーマは答えました。

「私は四つの特色が身に付けば預流果だと思う。仏陀にたいする揺らぎない信、法にたいする揺らぎない信、サンガにたいする揺らぎない信を確定していること、そして戒律を守っていることである。壊れることなく汚れることなく破れることなく、戒律を守っていることである」


このように、二人は意見がちょっと異なりました。

ゴーダさんは「三つの条件が揃えば預流果だ」と言い、マハーナーマさんは「四つの条件が揃えば預流果だ」と言いました。

ただ意見が異なっても、二人は仏教徒で預流果に覚っていますから、ごちゃごちゃくだらない喧嘩や言い争いはしません。


そこで意見が分かれましたが、それぞれがしっかりした意見ですから、これは二人にとっては解決することができません。

それでゴーダさんはこのように言いました。

「マハーナーマよ、待とう。これについてはお釈迦様にお尋ねしよう。どちらの意見が完成された正しい意見かは、お釈迦様しか分からないのだから」


そこで、マハーナーマさんとゴーダさんはお釈迦様のところへ行き、礼拝して座りました。


マハーナーマさんはお釈迦様の意見を聞く前に、先にお釈迦様にこれまでの二人の意見の違いについて話し、続けてこう言いました。


「あることに関して、比丘サンガ全員が一つの意見で、お釈迦様だけが別の意見をもち、意見が異なった場合、私はお釈迦様の意見に従います」


すべての比丘サンガが一貫して述べる意見であっても、それがお釈迦様の意見と違っている場合は、マハーナーマさんは何の躊躇もなく、お釈迦様の意見が正しいと決めるのです。

つまり、マハーナーマさんはそこまで仏陀のことを信頼しているということなのです。


さらにマハーナーマさんは続けて言います。

「あることに関して、比丘サンガ全員と比丘尼サンガ全員が一つの意見で、お釈迦様だけが別の意見をもち、意見が異なった場合、私はお釈迦様の意見に従います。

あることに関して、比丘サンガ全員と比丘尼サンガ全員、在家の男性全員が一つの意見で、お釈迦様だけが別の意見をもち、意見が異なった場合、私はお釈迦様の意見に従います。

あることに関して、比丘サンガ全員と比丘尼サンガ全員、在家の男性全員と在家の女性全員が一つの意見で、お釈迦様だけが別の意見をもち、意見が異なった場合、私はお釈迦様の意見に従います。

あることに関して、比丘サンガ全員と比丘尼サンガ全員、在家の男性全員と在家の女性全員、すべての神々、悪魔、梵天、沙門、バラモン等、すべての生命が一つの意見で、お釈迦様だけが別の意見をもち、意見が異なった場合、私はお釈迦様の意見に従います」


この経典で何が言いたいのかといいますと、「仏法僧にたいする揺らぎない信を確立する」とは、このぐらいの自信があるということなのです

神々、梵天、悪魔であろうが、比丘・比丘尼サンガ全員であろうが、在家の男性・女性全員であろうが、誰であろうが、皆が一つの意見をもっていて、お釈迦様が別の意見を言うなら、私は「お釈迦様が正しい」と、お釈迦様に従います。

これは口先だけでなく、自分自身でしっかりと「お釈迦様が正しい」と理解して確信しているのです。これが「揺らぎない信」ということです。


このように、マハーナーマさんはお釈迦様の意見を聞く前に、自分がどれほどお釈迦様を信頼しているかということを言いました。世界の生命すべてが「違う」と言ったとしても、私は「お釈迦様が正しい」ということを、そこまで確信していますよ、と。


では、なぜマハーナーマさんは先にそのようなことをお釈迦様に言ったのでしょうか?


ゴーダさんとマハーナーマさんの意見はそれぞれ違っていました。

それでもし万が一お釈迦様が、ゴーダさんの答えが法に合っていますと言われたならば、王家であるマハーナーマさんの立場が悪くなります。

それでも、お釈迦様はマハーナーマさんの立場などを全く気にせず回答してください、と言いたかったので、マハーナーマさんは仏法僧に対する揺らぎない信があることを発表したのです。


お釈迦様はマハーナーマさんの言ったことに、何も言いませんでした。そしてゴーダさんにこう聞きました。

「マハーナーマがこのように言っているが、あなたはマハーナーマにたいし、何か言いたいことはあるか?」


ゴーダは答えました。

「何も言うことはありません。(マハーナーマのお釈迦様にたいする揺らぎない信は)すばらしい。見事です」と言いました。


ここで経典は終わっています。中途半端なようですが、わざと終わっているのです。

ゴーダさんの言ったことについて、お釈迦様は何も答えていません。

そこで結論は何かと言いますと、「マハーナーマさんの言うことはその通りである」ということです。

「預流果の条件は四つで、戒律は必要」ということなのです。


だからといって、ゴーダさんの意見が間違っているということではありません。

これは言葉上の問題だと思います。

ゴーダさんも預流果ですが、戒律の条件は言いませんでした。

それはおそらくゴーダさんにとっては戒律を守ることは当たり前で基本的なことで、誰でも守らなければならないもので、特別に預流果の条件として出さなくてもいいのではないか、仏法僧にたいする揺らぎない信を確定することの方を強調した方がいいのではないか、という気持ちがあったからかもしれません。

しかしマハーナーマさんはそうではなく、「戒律を守ることも預流果に覚る条件である」と、はっきり言い、お釈迦様も「その通りである」と示されたのです。


(続きます)


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法話:スマナサーラ長老

預流果に覚る条件『マハーナーマ・スッタ』

根本仏教講義 ➤ 目 次

編集/文:出村佳子

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2011/12/10

預流果に覚る条件(6)


マハーナーマ経


多くの方が仏法僧を信じていますし、戒律も守っています。

でも「あなたの信は確かですか? 揺らがないですか?」

と聞くと、「私はちょっと自信がありません……」と言う人がほとんどです。


預流果に覚る条件『マハーナーマ・スッタ』



もし、いかなる場合でも「私の仏法僧にたいする信は変わらない」という自信があり、「誰に、どんなに誘惑されても、私は戒律を破りません」という決意があるなら、預流果です。



この「破るはずがない」という堅固な信、それがあれば預流果なのです。


「状況によって、どうするかわかりません。破るかもしれません……」というのは、なさけない生き方です。「今日は嘘をつきませんが、明日はわかりません。時と場合によって嘘をつくこともあります……」と言うならば、人格的にはまだまだしっかりしてないということです。

人格者というのは「破りません」と、はっきり決まっているのです。



預流果に覚っているなら、「仏法僧にたいする信」が揺らぐはずがありません。

戒律に関しても、誰に何を言われても、「絶対に破りません」という堂々たる態度です。

恐い上司に脅されても、「私はやりません」と、はっきりしています。


では、殺されそうになったら?


冗談じゃない。たとえ自分が殺されそうなっても、戒律を破ることはありません。

そのぐらい堅固な確信があり、そのように生きているなら、預流果の境地なのです。


預流果に覚ったら、解脱は確定です。

堕落することはありません。

地獄に落ちることも決してないのです。

天界など幸福な次元に生まれ変わるのですが、どこに生まれ変わっても解脱の方へ引かれ、解脱の方へ進んでいきます。

ですから、仏教徒は誰でも「預流果に覚ること」を目指して頑張るのです。


(続きます)


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法話:スマナサーラ長老

預流果に覚る条件『マハーナーマ・スッタ』

根本仏教講義 ➤ 目 次

編集/文:出村佳子

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2011/12/03

預流果に覚る条件(5)


マハーナーマ経


これまで「預流果の特色」をお話してきましたが、預流果の特色は「確信・戒律・学び・施し・智慧を長いあいだ育てていること」だけではありません。

預流果に覚っている人のなかには、「私は勉強はそれほどやっていない」という人もいますし、「施しはそんなにやっていない」という人もいます。

では、その人たちは預流果ではないかというと、そうではなく預流果に覚っているのです。

別の条件が身に付いているのです。


 
預流果の心の状況は、別の表現でもあらわすことができます。そこで、前の経典と同じフォーマットを用いて、もう一つの預流果の特徴を説明するのです。


二番目の経典ですので、一番目と同じところは省略し、ポイントになるところだけお話いたします。


マハーナーマがニグローダ精舎を訪れ、お釈迦様にお会いし、説法を聞いて、家に帰ります。帰る途中、街は興奮状態で、マハーナーマの頭は混乱し、仏法僧のことはきれいさっぱり忘れてしまい、そのとき心に不安がよぎりました。

「もし、こんなに汚れた心で死んでしまったら、死後どこへ逝くのだろうか?」

このことをお釈迦様に告げたところ、お釈迦様は、
「心配することはない」
と言い、次のように理由を述べられました。



「マハーナーマよ、四つの性格が身に付いている仏弟子は、涅槃に向き、涅槃に傾き、涅槃に引かれている」



この二番目の経典では「預流果に覚った人は四つの性質が揃っている」と説いています。

そして四つの性格が揃っている仏弟子は、「涅槃の境地に向き、傾き、引かれている」と教えています。

たとえば、高い所から何か物を落とすと下にストンと落ちるように、四つの条件が揃っている仏弟子は涅槃の方へまっすぐ向かうのです。

その四つとは何でしょうか?



①仏陀にたいする揺らぎない信



Idha mahānāma, ariyasāvako buddhe aveccappasādena samannāgato hoti:

「マハーナーマよ、ここで聖なる仏弟子は仏陀にたいして揺らぎない信を持っている」


一番目は「仏陀にたいして揺らぎない信を獲得すること」です。

「仏陀」という場合は、ある個人的な人間という意味ではありません。

「完全に覚っている方」という意味での仏陀です。

お釈迦様は覚りを開いた瞬間から「ただの人間」であることを超えました。

お釈迦様はご自分を示すときは「如来」という語を使っています。

如来とは、真理に達した方・真理を発見した方、という意味です。


当然、お釈迦様には「ゴータマ・シッダッタ」という固有名がありました。

しかし、経典ではお釈迦様にたいして固有名を使いません。それはたまたまそうなったという話ではありません。

スッドーダナ王の息子であるゴータマ・シッダッタという人が、修行の結果、完全たる覚りに達し、その瞬間から、人間だけではなく、生命という次元を超えたのです。仏陀になったのです。

仏教徒は、お釈迦様が人間であることと、仏陀であることは、明確に区別して理解しています。

信の対象になるのは、仏陀です。

師匠として仰ぐならば、人間・釈迦牟尼仏陀でもかまいません。

一般的に、我々は、いろいろな人に弟子入りします。その場合は、ある特定のことをその師匠から学ぶのです。師匠が別の面でダメな人間であっても、弟子にとっては関係ないことです。また、師匠はある一つの分野のプロであれば充分です。すべてを知っている必要はないのです。


仏陀を信の対象にする場合は、わけが違います。

その場合は、「人格完成者、智慧の完成者」に頼って、導きを請うのです。

信の場合は、心の揺らぎ、疑問などがあったらダメです。

師匠として仰ぐ場合は、師匠の性格の短所について、批判の目を向けてもかまいません。


というわけで、仏教では人間としてのお釈迦様と、釈迦牟尼仏陀が別々なのです。

仏陀の場合は、揺るぎない信を確定しなくてはいけません。

これは弟子入りすることほど、たやすいことではないのです。

仏陀が確実に仏陀であることを調べて、納得しなくてはならないのです。

仏陀の教えを学んで、教えが真理であることを確かめなくてはならないのです。

また、説かれた教えを実践し、説かれた通りの結果になるのかと確かめなくてはならないのです。

確かめられたところで、仏陀にたいする信が確定します。

その人は、覚りの道の預流果という境地に達しているのです。



次に、信を確定する人は何を確かめるべきか、ということが語られます。


Itipi so bhagavā araham sammā sambuddho vijjācarazasampanno sugato lokavidu anuttaro purisadammasārathii satthā devamanussānam buddho bhagavā ti.


「世尊は阿羅漢であり、正覚者であり、明行具足者(智慧と道徳の完成者)であり、善逝(正しく涅槃に到達し、善く修行を完成し、正しく善い言葉を語る方)であり、世間解(宇宙・衆生・諸行の三つの世界を知り尽くした方)であり、無上の調御丈夫(人々を指導することにおいて無上の能力を持つ方)であり、天人師(人間と超次元的存在である神々たち一切衆生の唯一の師)であり、覚者(真理に目覚めた方、仏陀) であり、世尊(すべての福徳を備えた方)である」


このように、仏陀には九つの特色があります。

この特色を「まさにその通りである」と自ら確かめているなら、心は明晰になり、確信が得られるのです。


もし微妙にでも「仏陀もいいけどイエズス様もなかなかいい」と思っているなら、それはまだまだ本物の信ではありません。

世の中にはそれなりに立派な人と言える人はいますが、その人たちに欠点がないかというと、そうではなく、あちらこちらに問題は見つかるのです。

ですから、その程度の人格者ではなく、「人々を見事に導き、わずかにでも欠陥がなく、真理を覚っている完全なる人格者」といえば、一人しかいません。仏陀です。仏陀以外ほかにいないのです。

そこで、この仏陀にたいして100パーセントの信を確定していることが、預流果の性質の一つです。

ただなんとなく信じています程度の信では、簡単に揺らいでしまいますから、不十分です。

明確に確定することによって、一番目の条件が調うのです。


預流果に覚る条件『マハーナーマ・スッタ』



②法にたいする揺らぎない信



二番目は「法(教え)にたいして揺らぎない信を獲得すること」です。


Svākkhāto bhagavatā dhammo, sanditthiko, akāliko, ehipassiko, opanayiko, paccattam veditabbho vinnuhii ti.

「世尊の説かれた法は、善く正しく教えられた(教理、実践方法、論理、言語だけでなく、修行の結果においても完全である)。実証できる、いつでも誰でも体験することができる教えである。普遍性があり、永遠なる教えである(真理なので時と場合によって訂正する必要はなく、また即座に結果が得られる教えである)。「来たれ見よ」と言える教えである(「誰でも確かめて試して見てください」と言える確かな教えである)。実践者を涅槃へ確実に導く。 賢者によって各自で覚られるべき真理(解脱)である」



これら六つの法(教え)の特色を「まさにその通りである」と自ら確かめて、法にたいして揺らぎない信を獲得すること、これが二番目の預流果の条件なのです。


③僧団にたいする揺らぎない信




三番目は「僧団(サンガ)にたいして揺らぎない信を確定すること」です。


Supatipanno bhagavato sāvakasangho. Ujupatipanno bhagavato sāvakasangho. Nāyapawipanno bhagavato sāvakasangho. Sāmicipatipanno bhagavato sāvakasangho. Yadidam cattāri purisayugāni attha purisapuggalā esa bhagavato sāvakasangho. āhuneyyo pāhuneyyo dakkhineyyo anjail karaniiyo anuttaram punnakkhettam lokassā ti.


「世尊の弟子たる僧団(サンガ)は、正しい道を実践するものであり、 まっすぐの道(涅槃への直道)を歩むものであり、 涅槃を目指して修行するものであり、尊敬に値する道を実践するものである。これらは四双八輩(*註)と呼ばれる八類に属する聖者の位を得た世尊の弟子たちを指す。これらの仏弟子僧団は、遠くから持ってくるものを受けるに値する。来客として接待を受けるに値する。徳を積むために供えるものを受けるに値する。礼拝を受けるに値する。世の無上の福田である」



これら九つの僧団の特色を、まさにその通りであると自ら確かめて、僧団にたいして揺らぎない信を獲得すること、これが三番目の預流果の条件なのです。


僧・僧団にたいして信を確定するときも、お釈迦様と同じく、個人と公人の差が出てきます。


一人ひとりの仏弟子を個人的に師匠にすることもできますし、仲良くすることもできます。当然、仏弟子であっても人間として気に入らないところがあり得るのです。師匠の対象になっても、信の対象にはなりません。


信の対象になるのは、僧団なのです。僧団とは、真理を体験した人々にたいし、個人扱いを取り消して一つの組織としてみなすことです。


仏弟子の第一人者は、サーリプッタ尊者です。たくさんの仏弟子たちがサーリプッタ尊者のところに弟子入りしました。しかし、それは信の対象としてではなく、師匠としてです。


サーリプッタ尊者を大阿羅漢の一人として見るときは、サンガの一員です。そのときは、個人ではないのです。サンガが信の対象になるのです。


ややこしく感じるかもしれませんが、仏教における信の場合は、大事なポイントです。なぜなら、仏教の信は宗教の信仰とまったく違うからです。


いままで説明した差は、同じ人であっても個人と公人の差と似ているのだと理解すればよいのです。




④道徳を守る揺るぎない決意



四番目は「道徳を守る揺るぎない決意を獲得すること」です。

ここでいう道徳とは、聖なる戒律のことです。

戒律・道徳などは、誰でも分かると思っているようです。人は簡単に戒律や道徳、規則などを作ったりもします。

でも、人がそのつど考える戒律や規則などは、普遍的な道徳になりません。

真理に達した人・仏陀が、心を清らかにするために人がやめるべき項目と、守るべき項目を真理に基づいて語るのです。

真の戒律とは、仏陀が説かれた戒律のことです。

世間が作る戒律では、いろいろ問題が起きます。社会で衝突も起きます。守らない人を脅したりもします。


真の戒律の場合は、守る人々の心は必ず清らかになります。

戒律を守る人がいるだけでも、その社会は平和になります。

預流果に達した人は、仏陀が教えられた戒を完璧に守るのです。

その戒律にたいして、微塵も疑いを持ちません。

戒律を改良する気持ちも、たまに緩める気持ちも起きないのです。



「聖者が認める、賢者に称賛される、執着を無くす、サマーディに導く戒律を、破れないよう、穴がないよう、斑点が入らないよう、汚点がないよう、自由意志で成就する」



たとえ仏陀の説かれた戒律であろうとも、中途半端な気分で、半信半疑で守ろうとするなら、守れないと思います。

何か決めたことをしっかり守り通すためには、精神力が必要です。

預流果になる人にとっては、戒律を守り通す精神力があるのです。

ふつうの気持ちで戒律を守ると、注意が足らなかった瞬間で破れてしまうことはたびたびあります。


仏教では戒律を守る人が何かの規則を破ってしまったら、それを修復します。

服のたとえで考えると、服が破れるたびに繕って修復する。

もし、たびたび服が破れるならば、その服はつぎはぎだらけのものになります。


預流果に達した人の戒律には、そのようなことがありません。服のたとえで言えば、破れたところも、落ちない染みも、色が変わって斑点がついたところも、ないのです。


その気になれば、儀式的に、形式的に、道徳項目を守ることはできると思います。しかし、それは預流果の特色にならないのです。


預流果に達した人は、自由に喜んで戒律を守っています。

心は、戒律によって、落ち着きに達しているのです。戒律によって、性格が変わっているのです。

性格が変わったから、戒律を守ることは何の無理もない自然な生き方そのものになっているのです。



お釈迦様はマハーナーマに次のように尋ねました。


「たとえば、ある木が東の方に向き、東の方に傾き、東の方に傾斜しているとする。その木の根を切ると、どの方向に倒れるか?」


「世尊よ、傾いている方(東)に倒れます」


「マハーナーマよ、同様に、この四つの性質をよく実践する聖なる仏弟子は、涅槃の方に向き、涅槃の方に傾き、涅槃の方に傾斜する」


このように「預流果の性質」は、仏法僧の三宝にたいする揺らぎない信を確定していることと、戒律を汚点なく守っていることの四つです。

一見、簡単なように見えますが、これには条件があります。

それは「決して揺らがない」ということです。

「何があっても揺らがない」という堅固で確定した信が、預流果に覚るためには欠かせない条件なのです。

そして四つの性質を育てた聖なる仏弟子は、必ず涅槃に達するのです。


(*註)四双八輩…預流道・預流果・一来道・一来果・不還道・不還果・阿羅漢道・阿羅漢果の八つの覚りの段階のいずれかに入っている聖者のこと。


(続きます)


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法話:スマナサーラ長老

預流果に覚る条件『マハーナーマ・スッタ』

根本仏教講義 ➤ 目 次

編集/文:出村佳子

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