2011/11/26

預流果に覚る条件(4)


マハーナーマ経


続いて、お釈迦様は「肉体」について説かれました。私もヴィパッサナー瞑想を指導するとき、肉体というのは生ゴミのようなものだから、肉体のことは気にしないでくださいと言いますが、その根拠はこちらにあるのです。


肉体とはどのようなものでしょうか? お釈迦様は次のように説かれました。



・肉体は物質でできています。
(物質とは地水火風のことです)

父親と母親によってできたものです。
(父親の肉体の一部と母親の肉体の一部をほんの少しずつもらってできた肉体です)

・ご飯や穀物など毎日いろいろな食べ物を注入して膨らました肉体です。
(ときどき「私の体格はいい。背も高いし、筋肉も鍛えてある」などと肉体自慢をする人もいますが、それはただ食べ物をどのくらい注入したかということです。肉が多いだけで、そんなのは本当は自慢にならないのです)

・肉体は毎日毎日、瞬間瞬間変化しています。(変化するたびに、修理や修復をしなければならないものです)


 生命は変化しているがゆえに、「生きる」ということが成り立っています。母親のおなかの中に生命が芽生えたとき、細胞はたった一つでした。その一つの細胞は、細胞分裂を繰り返しながら絶え間なく変化し続け、肉体をだんだん大きくしていきます。やがて、おなかの中の居心地が悪くなり、おなかから外へ出て行きます。外へ出て行った後も、成長は止まることなく、さらに成長を続け、大きくなっていくのです。
 このように、肉体はずっと成長・変化を続けます。でも、その変化のスピードは死ぬまで同じなのです。
 一般的に私たちは「子供は成長するのが早いが、大人になったら成長は止まる」などと考えていますが、そうではなく、子供も大人も同じスピードで変化しています。ただ、子供の変化には「成長する」という言葉を用い、大人の変化には「老化する」という異なる言葉を用いているだけで、その変化のスピードは子供も大人も同じなのです。
 それから、肉体は変化するたびに、修理や修復をしなければならないものです。たとえばおなかがすいたら、そのたびに何か食べなくてはなりませんし、のどが渇いたら、そのたびに何か水分を補給しなくてはなりません。体調が悪くなれば、薬を飲んだり運動したりしなくてはなりませんし、ケガをすれば、治療しなくてはなりません。このようにして、肉体はずっと修理し続けなくてはならないものなのです。
 肉体は、死ぬまで修理中です。機械の場合は、故障するのは時々でしょうが、肉体の場合は弱くて脆いものですから、一生故障中で一生修理中の状態です。ですから、機械としても相当価値が低い。たとえば車の場合は、毎日使っていても修理することなく数年は使えるでしょうが、肉体の場合はそうはいきません。しょっちゅう風邪をひいたり、胃腸が悪くなったり、ケガをしたり、あちこち痛くなったりします。もし肉体が機械なら、最低で最悪の機械ということができるでしょう。なぜなら、できあがった瞬間から修理しなければならないのだから。
 さらには、その修理がいつ終わるのか、終わる瞬間はありません。最終的には、修理不可能という瞬間になって、壊れて死ぬのです。
 このように、肉体は壊れるものなのです。
 
 ここで「壊れる」という言葉に注意しなければなりません。「壊れる」ということには二つの意味があります。一つは「悪い状態に壊れる」ということ、もう一つは「良い状態に壊れる」ということです。
 たとえば、筋肉が痛いとしましょう。これは「悪い状態に壊れる」ということです。それで、マッサージをして筋肉をほぐしたり、あたためたりして、痛みが和らいだとします。これは「良い状態に壊れる」ということです。
 このように、ある側面から見ますと「壊れる」ということは「良かった」という意味にもなるのです。ただ、これはあくまでも「良い状態に壊れる」ということで、言い換えれば「別の状態に変化する」ということであり、「元の状態に戻る」ということではありません。多くの方は、元の状態に戻ると思っているようですが、それは勘違いで、筋肉の状態が別の状態に変化するだけです。元の状態に戻るということはありえないのです。
 ケガをしたり病気になったりして身体の具合が悪くなると、私たちは病院へ行ってお医者さんに治療してもらいます。しかし、たとえ治療してもらって元気になったとしても、元の状態に戻るということはありません。別の状態になるだけです。いったん壊れたら、壊れたのであり、このようにして私たちの肉体は壊れっぱなしなのです。
 私たちは「壊れること」の一部を喜び、一部に腹が立っています。仏教では、「どちらにしても『壊れる』ということに変わりありませんから、腹を立てることにも意味がありませんし、喜ぶことにも意味がありません」と教えています。
 しかし、私たちはだいたい「病気になる」という状態に壊れると腹を立て、「病気が治る」という状態に壊れると喜びます。
 でも「病気が治る」といいましても、正しく言えば「別の状態に壊れる」ということであって、「壊れる」ということに変わりないのです。
 肉体は、このように「壊れる」性質のものなのです。


・死んだ肉体(死体)は、烏や鷲、禿鷹、犬、狐、虫類に食べられます。

 日本の仏教文化では一般的に「人は死んだら仏様になる」などと考えているようですが、鳥や動物たちが人間の死体を見たらどう思うのでしょうか? 仏様だと思うのでしょうか? 
 思わないのです。ただ「肉がある、おいしそう」と思って食いつくだけです。死体は、だいたい数日間、何もせずに放置しておくと、虫が大量に湧いてきます。ときには死体の表面がびっしり埋めつくされるほど虫が涌いてくるときもあります。どこから来るかはわかりませんが、死体を食べ尽くしていくのです。
 肉体というのはそんなもので、私たちは「これは私の大事な身体だ」と執着していますが、鳥や動物、虫類にとっては「死体はただの肉」でしかなく、餌として食べるのです。

 このように肉体は汚くて醜い生ゴミですから気にすることはありません。

預流果に覚る条件『マハーナーマ・スッタ』

 
お釈迦様はマハーナーマにこのように言いました。

 「肉体が壊れても、長いあいだsaddhā(確信)・siila(道徳)・suta(学び)・cāga(奉仕)・pannā(智慧)によって心を育てているなら、心は上方に赴き、下に落ちることはありません」

 これら五つの人格を向上させているなら、死ぬことはただ肉体が壊れるだけのことであって、些細なことにすぎません。心の進化は止まることなく、今の状態よりもさらにステップアップするのです。

 このことを、お釈迦様は分かりやすい例え話を用いて、次のようにマハーナーマに話されました。

 たとえば、ある人がサッピsappi(牛乳からとれる油で、白い色をし、バターよりも少しやわらかいもの)を壷の中に入れ、その壷を深い湖の底におろして、そこで割ります。どうなるでしょうか? 壷の破片は下に沈みますが、油は上に浮き上がってきます。  そのように、人が深い湖の底で生活しているとしましょう。肉体は素焼きの壷のように脆いものですから、ちょっとしたことで簡単に壊れます。でも心を成長させ、油のように軽く清らかにしているなら、肉体が壊れた瞬間(死の瞬間)、心は上に上がっていきます。だから肉体が壊れることを気にする必要は全くありません。心に五つの条件を育てているなら、「死」を心配する必要はないのです。

 サッピは普通の油より軽いのです。もし人が心を確信・道徳・学び・施し・智慧で育てることなく、欲・怒り・嫉妬・憎しみ・無知といった心を重くするもので育てたならば、砂利でいっぱいになった壺が水の中で壊れたように、上方に赴くことはまったくないのでしょう。

 マハーナーマは確信・道徳・学び・施し・智慧という五つの性質をすべて身につけた人格者であり、仏教の在家信者としては長老格で立派な方ですから、街で興奮している象や馬、人々を見て恐くなっただけで「今死んだらどこに逝くのだろうか」と死後のことを心配する必要はありません、とお釈迦様はマハーナーマにおっしゃいました。マハーナーマはすでに「心を育てたプロ」ですから、心はそう簡単に堕落しないのです。

 これも預流果に達した人の特色の一つです。確信・道徳・学び・施し・智慧の五つの性質が揃っているなら、預流果の覚りに達しているということであり、その人に堕落はないのです。

(続きます)


・・・・・・・・・・・・・・・

法話:スマナサーラ長老

預流果に覚る条件『マハーナーマ・スッタ』

根本仏教講義 ➤ 目 次

編集/文:出村佳子

・・・・・・・・・・・・・・・





2011/11/13

預流果に覚る条件(3)


マハーナーマ経


②Siilaparibhāvitam cittam「戒(道徳)」によって心を育てる


条件の第二番目は「siilaparibhāvitam cittam」です。

「siila」とは道徳的な生き方のことです。


世の中には「戒律を守るなんて、まっぴらごめんだ」と言う人が、結構います。

でも、本当は戒律を守って道徳的な生き方をすることこそが、人格を向上させる道であり、人の心を自由にさせる道なのです。


心の自由とは何でしょうか?


それは、何があっても落ち着いていられる心のことです。

道徳を守って生活していると、世の中のどんなことにも足を引っ張られなくなる強い心が育つのです。


世間では「自分の心の声に従って生きましょう」と言い、そのように生きることが自由だと考えているようですが、本当にそうでしょうか? 


では、皆さま、ご自分の心に「自分は本当は何をやりたいのか?」と正直に聞いてみてください。


心の声に従うとひどいことになるということがおわかりになるでしょう。


心というのは、本当は自分を不幸にするようなことしか考えていないのです。

欲張りたい、酒を飲みたい、嘘をつきたい、怠けたいなど、心のままに生きることこそが、不幸で不自由への道です。

そこで、幸福で自由になりたければ、私たちは心の声に逆らって生きるべきなのです。


在家の方にすすめている戒律は、たった五つしかありません。

 ・殺生しないこと

 ・盗まないこと

 ・嘘をつかないこと

 ・淫らな行為をしないこと

 ・酒や麻薬を摂らないこと


これらは実践です。長いあいだ戒律を守って正しい生き方をしていると、人格が大きく向上します。

そして自由に、気楽に、幸福に生きていくことができるのです。

周りの人たちからも信頼されるようになるでしょう。


「仏教の戒律は厳しくていやだ」と言う人がいますが、

厳しいどころか、本当は戒律ほど人に親切な教えはないのです。



預流果に覚る条件『マハーナーマ・スッタ』



③Sutaparibhāvitam cittam

「学習(聞)」によって心を育てる



条件の第三番目は「sutaparibhāvitam cittam」です。

「suta」は真理の教えを聴くこと、勉強すること、学ぶことです。

お釈迦様の話を聴いたり、また他の人々の話もいろいろ聴いたりして、比較対照し、学び、勉強していると、頭の良い人になっていきます。

七覚支とは何かとか、五蘊とは何か、煩悩にはどのようなものがあるのか、縁起(因縁)とはどういうものかなど、いろいろ勉強することが必要なのです。

勉強しなかったら覚れないということでもありませんが、「人は勉強するべき」という態度は、仏教は一貫して言っています。


宗教の中には、「他宗教の教えを聴いてはならない、学んではならない」と教えている宗教もありますが、そのようなことでは永久的に無知で終わってしまうでしょう。


仏教にはそういうことはありません。自由に勉強しなさいと教えています。

ただ、世の中には勉強するものが無数にありますから、「何を勉強するか」ということを選択しなくてはならないということが当然必要になってきます。

選択するときは、自分に役立つものを選択し、役に立たないものは、やめるべきでしょう。


では、どんな勉強が私たちにとって役に立つ勉強なのでしょうか?


俗世間でお金を儲けることも役に立つといえば役に立つでしょうが、それは一時的なことにすぎません。やはり「人格を向上させること」が、人間にとって最も役に立つ勉強なのです。


人格向上に役立つものは、とことん勉強してください。

その勉強を長いあいだ続けていると、それによって人格が向上し、頭も良くなります。

また、長いあいだ勉強したものは、一瞬にしてすべて忘れることもありません。




④Cāgaparibhāvitam cittam

「施し(施捨)」によって心を育てる



条件の第四番目は「cāgaparibhāvitam cittam」です。


「cāga」というのは「施し」で、欲や執着なく、人々に協力したり、社会のためにいつでも何かしてあげたりすることです。


「手のひらを握って生きるのではなく、手のひらを開いて生きる」という文学的表現がありますが、いつでもそのような気持ちで、奉仕の心を育てるのです。


一生に一度だけ他人に親切にしてあげただけでは、人格が向上するはずがありません。

毎日のように長いあいだ奉仕活動をしなければならないのです。

そうすることによって、人格が向上していくのです。




⑤Paññāparibhāvitam cittam

「智慧」によって心を育てる


もう一つ条件があります。第五番目の条件は、「paññāparibhāvitam cittam」です。


「paññā」とは智慧のことです。智慧によって心を育てている、ということです。


智慧というのは、真理の目で物事を見ることで、真理とは「無常・苦・無我」です。


そこで、このことを勉強したり研究したりして、まず自分で真理を発見しなければなりません。


それから、自分の生き方を変えていくのです。いわゆる物事を評価するとき、「無常・苦・無我」という基準で評価し、その基準に基づいて生活するのです。


paññā とは「無常・苦・無我が真理である」と知り、理解して、それに基づいて生きることなのです。


また、苦集滅道の「四聖諦」を発見し、四聖諦は真理であると理解して、その四聖諦に従って物事を判断し、生活することも、智慧です。


真理に基づいて生活することは、そう簡単に実践できることではありません。長いあいだの訓練が必要なのです。


五つの条件をまとめますと、


①信(確信):ものごとの真理を理解して納得すること


②戒(道徳):道徳的に生きること(一日だけ戒律を守ったからといって道徳的な人間とは言えません。一生涯、守らなくてはならないのです)

③学習(聞):勉強して、理解能力をどんどん深めていくこと

④施し:奉仕的な生き方をすること(けちで暗い生き方ではなく、惜しまずに他の人々や生命を助ける生き方をすること)

⑤智慧: 智慧を開発すること(真理に基づいて生活し、あらゆることにおいて物事の見方を本格的に正しく改革すること)

これら五つの人格を向上させることが、仏教の目標です。

これはかなり高い目標で、毎日精進しないと達することはできません。


小さなことを一回やっただけで人格が向上すると思わないでください。

ちょっと他人に親切にしただけで、「私って結構立派な人間だ」などといい気分になるべきではないのです。


そこで、長いあいだ心を育てている仏教徒も、普通の人も、社会の中ではいっしょに生活しています。

表面的には何も変わらないように見えるでしょうが、心のほうはものすごく違うのです。

仏教徒は長いあいだ訓練をして人格を改革していますから、普通の人とは心の性質が異なっています。

汚れた心で物事を見る俗世間の見方や思考の仕方とは、似て非なるものなのです。


(続きます)


・・・・・・・・・・・・・・・

法話:スマナサーラ長老

預流果に覚る条件『マハーナーマ・スッタ』

根本仏教講義 ➤ 目 次

編集/文:出村佳子

・・・・・・・・・・・・・・・






2011/11/03

預流果に覚る条件(2)


マハーナーマ経



お釈迦様はマハーナーマにこのように言いました。


Mā bhāyi mahānāma, mā bhāyi mahānāma apāpakaṃ te maranaṃ bhavissati, apāpikā kālakiriyā.


「恐れるなかれ、マハーナーマよ、恐れるなかれ、マハーナーマよ、なんじは不幸な死には至りません。幸福に逝くでしょう」


パーリ語の「bhaya」は、恐れること、怖がること、心配すること、という意味で、お釈迦様はこの言葉を二回くり返して言います。


「Apāpakaṃ te maranaṃ bhavissati」は、「あなたの死は、不幸な死にはなりません」という意味です。


「Pāpaka」は、専門用語では「不善」や「罪」という意味ですが、この場合は「不幸」や「悪い」の意味で理解しなければなりません。

たとえば、何か仕事をして失敗してしまったとき、パーリ語では「pāpakaṃ」と言います。いわゆる「失敗だ、ダメだ、うまくいかなかった」ということです。

ここでは罪という意味ではなく、不幸や悪いという意味です。

それから、この語には「a」という否定の意味の接頭辞が付いていますから、「悪くない」「不幸ではない」となり、文全体の意味としては「マハーナーマよ、そんなに心配するな。あなたの死は悪いことにはなりません。不幸にはなりません」となるのです。


「apāpikā kālakiriyā」も同義語で、「あなたが亡くなっても決して不幸にはなりません」という意味です。


でも、この言葉だけを聞くと、ちょっと宗教的な話にも聞こえ、ただ信仰すればいいのではないか、と思う方もいるかもしれません。

ここで気をつけなければならないのは、マハーナーマという人は世間一般の人とは違い、お釈迦様の親戚でもありますし、お釈迦様に頻繁に会って説法を聞いていた熱心な仏教徒です。

ですから仏教の理解や修行というのは、私たちよりも遥かに上なのです。


お釈迦様は次に、なぜマハーナーマにそのように言ったのかと、理由も述べます。仏教はいつでも証拠や理由を出して話すのです。


Yassa kassaci mahānāma, dīgharattaṃ saddhāparibhāvitaṃ cittaṃ, sīlaparibhāvitaṃ cittaṃ,sutaparibhāvitaṃ cittaṃ, cāgaparibhāvitaṃ cittaṃ, paññāparibhāvitaṃ cittaṃ, tassa yo hi khvāyaṃ kāyo ruupī cātummahābhuutiko mātāpettikasambhavo odanakummāsuupacayo aniccucchādanaparimad–danabhedanaviddhaṃsanadhammo, taṃ idheva kākā vā khādanti, gijjhā vā khādanti, kulalā vā khādanti, supānā vā khādanti, sigālā vā khādanti, vividhā vā pānakajātā khādanti, yañca khvassa cittaṃ dīgharattaṃ saddhāparibhāvitaṃ, sī– laparibhāvitaṃ, sutaparibhāvitaṃ, cāgaparibhāvitaṃ, paññāparibhāvitaṃ, taṃ uddhaṃgāmī hoti visesagāmī.


「マハーナーマよ、人の心は長きにわたって信(確信)によって鍛錬しているならば、戒(道徳)によって鍛錬しているならば、学習(聞)によって鍛錬しているならば、施し(施捨)によって鍛錬しているならば、智慧によって鍛錬しているならば、その人の、地水火風で出来ている、両親によって生まれた、ご飯や穀物によって支えている、無常でつねに修復せねばならぬ、壊れるものである、この肉体は、ここでカラスや鷲や禿鷹や犬や狐、虫たちが食べる。

しかしその人の長きにわたって信、戒、学習、施し、智慧によって鍛錬された心は、上方に超越に赴く」


この一つの段落で、お釈迦様は膨大なことを教えています。

まず、一行目のYassa kassaci mahānāma というのは、「マハーナーマよ、誰かにこれから説明する条件が揃っているならば」という意味になります。

その条件とはどういうものか、これから勉強しましょう。


預流果に覚る条件『マハーナーマ・スッタ』



① Saddhāparibhāvitaṃ cittaṃ

 「信」によって心を鍛錬する


Dīgharattaṃ saddhāparibhāvitaṃ cittaṃ は「長いあいだ信によって心を鍛錬している」という意味です。

ここで「信」(saddhā)という言葉について注意しなければなりません。

といいますのも、仏教と他宗教では「信」の意味が異なるからです。

英語では「信仰」のことを「belief」と言い、これには二つのニュアンスがあります。

一つは「日常的な信仰」、もう一つは「宗教的な信仰」です。



○ 俗世間の「日常的信仰」


「日常的な信仰」にはいくらか証拠が必要です。

たとえば一般的に夫婦間では旦那さんは奥さんのことを信じているでしょうし、奥さんは旦那さんのことを信じているでしょう。そこにはいくらかの証拠があります。六〇~八〇パーセントぐらいは証拠があるのです。

でも一〇〇パーセントではありません。

これは長いあいだ一緒にいて相手の性格をよく知っている、という程度に信じているということです。

なんらかの証拠はありますが、ピッタリ一〇〇パーセントとは言えませんから「ま、信じています」という程度です。

一〇〇パーセント信じ切るというのは、人間の世界ではほとんどありえないでしょう。


○ 俗世間の「宗教的な信仰」


もう一つの、神を信仰するという場合の「宗教的な信仰」のほうは、証拠がないのに無条件で完全に神を信じることです。

証拠を探すと、それは信仰になりません。

もしも探したりでもしたなら「あなたの信仰は汚れている。疑いが入っている。信仰は本物ではない」などと非難されたり、「地獄に落ちる」などと脅されたりするでしょう。

このような宗教の信仰には、証拠は何も要りません。

証拠があるなら、それは信仰ではなく、当たり前の事実になるのです。

このように、「神を信じます、魂があると信じます」という場合の「信」と、「私は旦那/妻を信じます」という場合の「信」とは、意味が異なるのです。


では、仏教における「信」とはどのようなものでしょうか?

これも二種類あります。



○ 仏教の「一般的な信」


一つ目は、一般的な「信」です。

お釈迦様の話を少しずつ聞いていくと、「お釈迦様の教えは理に適っている」ということがだんだんわかってきます。

それで「私はどちらかというとお釈迦様の教えを信じます。証拠に基づいて話しているのだから」などと言うようになるでしょう。

この程度の「信」です。

これはちょうど私たちが病気になったとき、医者の言うことを信じるようなものです。

患者は医者を信じて治療を受けたり、アドバイスを聞いたり、クスリを飲んだりします。一〇〇パーセントではありませんが、ある程度は証拠と実績がありますから、信じるのです。


○ 仏教の「確信」


もう一つの「信」は、お釈迦様の教えをどんどん理解して、いろいろ疑問を持ったり、徹底的に調べたりして、その結果「やっぱり事実でした。これは間違いがない」と深く納得した上での「信」です。

別の言葉でいいますと「確信」です。

長いあいだ時間をかけて仏教を学び、勉強し、理解していくと、やがてこの確信が得られるのです。

たとえば「欲は悪いもので、煩悩で、苦しみのもとである」という教えを聞いたとき、私たちはそれをすぐに理解できるでしょうか?

理解できるはずがないのです。

なぜなら、実際のところ私たちは欲を喜び、楽しんでいるのだから。

ですから、教えを本当に理解するためには、自分自身でいろいろ研究する必要があるのです。では実験して調べてみましょうと。

それで実験して、研究して、実践していくうちに、やがて「欲は苦の原因である」ということが自分で発見できるのです。

そして「なるほど、教えは真実である」ということが納得できます。

これが仏教の「信」、いわゆる「確信」なのです。
 
真理にたいする確信が現れたときから、仏教徒と言うことができます。

それまでは仏教にたいする確固たる確信がまだありませんから、仏教徒ではありません。ただ仏教に興味や関心があるだけなのです。


ときどき、「仏教は簡単だ。私は仏教のことをよく知っている」などと言う人もいますが、それは明らかに嘘だと思います。そんなに簡単に仏教を理解できるはずがないのです。

なぜかといいますと、仏教の思考と私たちの思考は正反対だから。仏教の教えは真理であり、俗世間とは正反対のものです。

たとえば、俗世間では「私は死ぬはずがない」という生き方をしているのにたいし、仏教は「今の瞬間にも死ぬかもしれません。無常だから」という生き方をしています。

俗世間では「永続する魂がある」という固定概念をもって生きているのにたいし、仏教は「無我です。何もありません。シャボン玉と同じです」という態度です。

このように「お釈迦様の道」と「俗世間の道」はまったく正反対なのです。ですから仏教を理解して納得するためには、かなりの研究と実践が必要です。教えをただ鵜呑みにするのではなく、「本当にそうなのか」と徹底的に研究して実践しないと発見できるものではないのです。


それから、仏教徒になるために、洗礼などのような儀式はありません。

真理を理解して納得し、確信することで、仏教徒になるのです。

この「理解して納得し、確信する」ということは相当な力です。

あらゆることを研究して、調べて調べて確信する、これはものすごい力なのです。

世間においても、人はいろいろな分野で研究しているでしょう。

あらゆるデータをとって調べて、どんどんプロになっていきます。

これはとても強い力なのです。

たとえその人が何かの病気になったとしても、いったん深く納得したものを完全に忘れてしまうということはほとんどありません。

たとえば国際的な数学のプロの学者がいて、ある日突然事故を起こして病院に運ばれ、もうどうにもならないほど頭が朦朧としているとしましょう。

数学の論理を解説するどころか、人と話すのも大変な状態です。

でも、そういう状態だからといって、頭が完全におかしくなることはないのです。

あの状態が治ると、また数学者に戻ります。

たとえ一時的に頭脳が機能しなくなっても、それはどうということはありません。

その人は長い間その分野で訓練してきたのだから、そう簡単に忘れてしまうことはないのです。


経典に戻りますが、一行目の「dīgharattaṃ saddhāparibhāvitaṃ cittaṃ」というのは、「長いあいだ信(saddhā)によって心を育てている」ということです。

これは、教えをただ鵜呑みにして盲信しているのではなく、調べて納得することによって心が成長している、ということです。

人格的に成長しています。

仏教の「信」を育てるだけでも、人格が大きく向上するのです。


(続きます)


・・・・・・・・・・・・・・・

法話:スマナサーラ長老

預流果に覚る条件『マハーナーマ・スッタ』

根本仏教講義 ➤ 目 次

編集/文:出村佳子

・・・・・・・・・・・・・・・






2011/10/09

Steve Jobs


Steve Jobs' 2005 Stanford Commencement Address

Click on the image below to play the video in YouTube
http://www.youtube.com/user/StanfordUniversity



"When I was 17, I read a quote that went something like:
“If you live each day as if it was your last, someday you’ll most certainly be right.”
It made an impression on me, and since then, for the past 33 years, I have looked in the mirror every morning and asked myself: “If today were the last day of my life, would I want to do what I am about to do today?” And whenever the answer has been “No” for too many days in a row, I know I need to change something.
Steve Jobs



2011/10/08

預流果に覚る条件(1)


マハーナーマ経


今回ご紹介する経典は『Sotapatthi samyutta』というセクションの『Mahanamasuttam / マ ハーナーマ・スッタ』という経典です。


Sotapatthi(ソータパッティ)というのは「預流果になる」という意味で、お釈迦様の時代では、多くの在家の方々が預流果に覚っていました。

預流果に覚ることは、それほど珍しいことではなかったのです。



そこで、多くの人が預流果に覚っていますから、預流果についての理解や解説などに個人差がでてきます。

覚りそのものには差がありませんが、「あなたはどのように理解していますか?」と聞くと、それぞれ表現の仕方や言葉が少々変わったりするのです。



そこで、「預流果というのはこういうものである」ということをいったんまとめたほうがいいのではないかということだろうと思いますが、お釈迦様が教えられたさまざまな実例やデータが、このサンユッタニカーヤにまとめてあるのです。


今回はその中の経典の一つ、預流果のセクションの第三章です。



Ekam samayam bhagava sakkesu viharati
kapilavatthusmim nigrodharame.


ある時、世尊は釈迦国のカピラ城ニグローダラーマに住んでおられました。


カピラワットゥというのは国の首都の名前で、お釈迦様が生まれた故郷です。
このカピラワットゥに、ニグローダーラーマというお寺がありました。



Atha kho mahanqmo sakko yena bhagava tenupasankami. Upasankamitva bhagavantam abhivadetva ekamantam nis]di. Ekamantam nisinno kho mahanamo sakko bhagavantam etadavoca:

 
その時、釈迦族のマハーナーマが世尊を訪ねました。

それから世尊に礼拝し、傍らに座りました。

座ってから、マハーナーマは世尊にこのように告げました。

「世尊よ、このカピラワットゥという街は幸福で,大変豊かな街です。

人口が多く、混雑しています。


街が豊かということは、人口が多いということです。

人口が多いということは、それなりに問題も多いということです。

これは今も昔も同じで、街が経済的に発展すると、そこに人が集中しますから、ごちゃごちゃして、ややこしくなるのです。


それで私は、世尊や親愛なる比丘方と親しく付き合います。

夕方、カピラ城に戻ると、興奮している象に出くわします。

興奮している馬に出くわします。興奮している人に出くわします。

その時、世尊よ、私の心から世尊にたいする気づきがなくなります。

法にたいする気づきもなくなります。

僧団にたいする気づきもなくなります。

そのとき、私はこのように思います。

『もし私がこの瞬間に死んだら、私は何処へ往くのでしょう。

私の死後、どうなるでしょう』と。」



少々、説明しましょう。


インドは現代でも、身動きできないほど混雑している国です。

街に限ったことではなく、田舎でも同じ状態です。

昔のカピラ城も同じでした。

人が大勢いましたから、品物を運ぶために走り回っている人々や、店をたたんで商売道具を荷車にのせ、早足で家に帰る商人などで混乱していたのです。


その上、興奮して管理できない動物たちが道路をあちこちうろついています。

飼われている動物ですが、街で動物たちが興奮して歩いていると、人間にとっては結構迷惑なのです。

日本では経験することがないでしょうが、インドやスリランカでは動物たちが道路を歩いていて、牛は牛の勝手で道路を渡っていますし、車のクラクションを鳴らしても、まったく意味がありません。車が止まって、牛が移動するのを待つしかないのです。


そこで、マハーナーマさんはついさっきまで穏やかな雰囲気の中、心清らかなお釈迦様やお坊様たちと話をし、幸せな気分でいたのに、夕方、街に入ったとたん、環境がガラッと変わってしまい、人の多さと管理不可能な動物たちでごったがえし、頭が混乱したというのです。

今までお釈迦様のことを思い浮かべたり、教えを思い浮かべたり、比丘サンガのことを思い浮かべたりして、たいへん幸せな気分でした。

その気持ちはきれいさっぱりなくなって、心は混乱してしまったのです。

おそらく、興奮した象や馬が暴れている状況なので、怖くなったのでしょう。

踏み潰されたら、一巻の終わりだ」と逃げ回っているマハーナーマの心は、身の安全をはかることで精一杯です。

仏法僧のことを思い浮かべる余裕はないのです。

それでも、象に踏まれたり馬に蹴られたりして、死ぬかもしれません。

このような状況のなかで死んでしまったら、自分の死後、どうなることかと心配したのです。


預流果に覚る条件 スマナサーラ長老



いま死んだらどうなる?



命拾いしたマハーナーマが、「あのとき死んだら、どうなるのか」と心配した気持ちが、このエピソードでよく分かります。

一般の人が災難に遭遇して命拾いしたならば、おそらく「神仏のご加護で助かった」という気持ちになるでしょう。

しかしお釈迦様の教えに慣れている人の気持ちは違います。

「あのとき死んでしまったら、どうなったことか」と、転生することに恐怖感をおぼえるのです。

混乱した心で死ぬことは不幸です。

恐怖感に陥った心で死ぬことも不幸です。

解脱に達することができなかったなら、せめて清らかな心で死にたいものです。

このように思うことは、仏教徒の特色かもしれません。

清らかな心で死にたいと思う人は、常に心を清らかに保つことに励むのです。

このように励むことは、悪い感情に誘惑されないようにするために、たいへん有効な方法です。


これにたいし一般の人は「絶対、死にません」という前提で生きています。

死ぬかもしれません、という気持ちがあると、一般の人には仕事をすることも、家を建てることも、旅に出ることもできません。何もやる気が起こりません。ですから「死」という単語は一般社会では使用禁止なのです。

人は死ぬのではなく、天国に召されると言うのです。または他界すると。これは眼を見張るほど明るい言葉です。

それほど良い状況であるならば、みな宝くじが当たったような気分で死を迎えればいいのに、現実は正反対です。極力、死を避けるのです。死について考えることも避けるのです。

私たちはいろんなことから逃げまくって生活しています。切羽詰ったときには、夜逃げまでします。

いくら逃げ上手であったとしても、「死」からは絶対に逃げられません。


一般人は「死」という現実を、無いことにするのです。それは正しい対応ではありません。

逃げることができないというのは、必ずその現実に遭遇するという意味です

。それなら、遭遇したらどのように対応するべきかと構えていたほうがいいのです。



人はいつ、どこで、どのように死ぬのか、さっぱり分かりません。

それならば、常に死に出会う構えが必要です。

仏教徒は、死を嫌うことも、死から逃げようとすることもしません。

その代わりに、構えるのです。その方法はいたって簡単です。


「私は今の瞬間、今の心境で死んでしまったら、大丈夫でしょうか?」

と自分の心を観るだけです。

「私は今、心置きなく死ねるでしょうか?」

と、一人一人、問いかけてみてはいかがでしょうか。

そう問いかけてみると、構えがあるかないかを発見します。


いろいろあるでしょう。子供が独立するまで死ねないとか、娘の花嫁姿を見るまで死ねない、孫の顔を見るまで死ねない、などなど思い浮かぶでしょう。

それは構えがない、ということです。


しかし、期待が叶ったところで、心置きなく死ねるのかと言えば、そうではありません。

娘の花嫁姿を見たとしても、次に「孫の顔が見たい」など新しい期待が生まれてきます。

期待には終わりがありません。期待や希望がいくらあっても、人はあっけなく死ぬのです。


死ぬときに、欲のない、怒りのない、無数の希望にたいする執着のない明るい心なら、文句はないでしょう。

そのような心で、日常を過ごさなくてはなりません。

ですから、「今なら心置きなく死ねます」と言える人の明るさには、誰もかなわないのです。


ここまでで何が勉強できるかといいますと、「私たちはいつ死ぬかわかりませんから、常に気をつけていたほうがいい」ということです。

怒りっぽくて、嫉妬ばかりして、人を憎んで、そうやって四六時中いるべきではないのです。

たまたま怒ったとしても、その怒りは即座に消して、善い心でいなければなりません。

なぜかというと、いつ死ぬか分からないからです。

汚い心で死を迎え、次に幸福なところに生まれ変わるということは、理屈に合いません。

死ぬときにカンカンに怒って、怒りの感情で染まっている人が天国に行くということは、理屈が成り立たないのです。


私たちは弱いものですから、いきなり怒ったり、嫉妬したりすることも、しょっちゅうあるでしょう。

だからといって、その感情を引きずるべきではありません。

「はい、もう終わった。いつ死ぬかわかりませんから、清らかな心でいなくてはならない」

と、常に心を制御して管理しなければならないのです。


(続きます)


(続きます)


・・・・・・・・・・・・・・・

法話:スマナサーラ長老

預流果に覚る条件『マハーナーマ・スッタ』

根本仏教講義 ➤ 目 次

編集/文:出村佳子

・・・・・・・・・・・・・・・



If today were the last day of my life...

"When I was 17, I read a quote that went something like: “If you live each day as if it was your last, someday you’ll most certainly be right.”
It made an impression on me, and since then, for the past 33 years, I have looked in the mirror every morning and asked myself:  “If today were the last day of my life, would I want to do what I am about to do today?” And whenever the answer has been “No” for too many days in a row, I know I need to change something.
Steve Jobs

2011/09/30

「美しさ」とは

 スリダンマ-ナンダ長老

 *************************************************
 美というものは非常に主観的なものである。
 あなたが美しいと思うものを
 他の人は醜いと言うかもしれない。
 *************************************************

 現代人の「美」の概念は、宣伝広告に大きく影響されています。しかし「美」というものは、その人がどのように見るかという見方の問題です。「蓼食う虫も好き好き」ということわざがあるように、何を美しいと思うかは人によって異なるのです。

 企業は、販売を促進させるために様々な戦略を用いて消費者たちの欲望を強引にあおり、流行や好みなどを大きく操っています。そして、美意識の強い女性や男性たちに、「美は基本的な人権である」として、美を追求させるようなレベルまで非現実的な期待を抱かせるように仕向けているのです。

 現代人の多くが探し求めている美しさは、内面の美しさではなく、外見の美しさです。それで、多くの人たち、とくに若者たちは、友人や結婚相手を選ぶとき、外見が美しい人とつきあおうとするのです。

 外見が美しい人のほうが、周りの人たちに高く評価されやすいですから、人はさまざまな手段を試みて、美しくなろうとしています。エアロビクスに行ったり、痩身法のコースに通ったり、美顔術で顔のしわを取ったり、流行の服を着たり、最新の髪型にしたりや化粧をしたり。このように、美しくなることに関してはとても敏感になっています。とくに体重がほんの数ミリグラムでも増えたら、すぐに気がつくのです。

 このように、私たちは一生懸命、外見の美しさを追い求めていますが、すべての人間に本来備わっている「自然の美しさ」のことは忘れてしまい、それが生かされることはほとんどありません。見失ってしまっているのです。現代において「自然の美しさ」がすっかり見落とされているのは、おそらく、手軽にすぐに美しく見せることのできる化粧品などが簡単に手に入るからでしょう。ファーストフードや、さまざまインスタントのものが出回っている現代、どこでも手軽に入手できるインスタント美容法や化粧品などに依存する女性たちが多くなってきているようです。


自然の美

 では、自然の美しさとは何でしょうか?

 それは、慈しみや思いやり、明晰さ、心の美しさのことです。数ある美容法や化粧品のなかで最も美しくなれるものは、慈悲の心です。これが自然の美しさです。お金はかかりませんし、必ず効果もあります。慈悲の心を持っている人は、化粧をしなくても、髪が整っていなくても、美しく見えるものです。

 たとえ外形がそれほど美しくなく生まれたとしても、慈悲と忍耐があれば、その人は光輝きますし、魅力的に見えます。慈悲と忍耐は、内面を豊かに輝かせるのです。そしてその内面の輝きが外に向かって放たれ、その人を非常に魅力的に美しく見せるのです。その人の身体からは特別な魅力としての美しさが自然に溢れ出していますから、大勢の人たちがその人に魅かれていくでしょう。

 「外見の美しさ」は、花が萎んでいくように消えていきますが、「内面の美しさ」には人の心を弾きつけるオーラがあります。内面が美しくなればなるほど、人は落ち着き、豊かで、美しくなるのです。

 他方、生まれつき容姿が美しく魅力的であったとしても、嫉妬深く、わがままで、ずるくて、うぬぼれが強い性格ならば、周りの人たちはその人から離れて行くでしょう。いわゆる、プライドが高くて気取っている人よりも、思いやりや慈しみを放ち、穏やかで丁寧に話しをする人のほうが、はるかに魅力的なのです。確かに外見の美しさは人々の注目を集めるでしょう。でも、それはどのぐらい長持ちするでしょうか? 長持ちしないのです。とくに心が汚れているなら、なおさら長持ちしません。外見の美しさは、すべてのものがそうであるように、すぐに萎れて消えるものなのです。「美貌はただ皮一重」(見た目の美しさは表面の皮一枚にすぎない︶ということわざは、まさに真実でしょう。

 それに対し、「慈しみの美しさ」は長続きします。そして、すべての生命に高く評価されるのです。

 だからといって、容姿が醜いことがいい、と言っているわけではありません。お釈迦様は、このようにも教えています。「地味で美しくない人(質素な服を着ている人)が聖者や善人だということではありません」と。大切なのは内面であり、外見の美醜ではないのです。

 世界は鏡のようなものです。笑顔で鏡を見れば笑顔が映って見えますし、怖い顔や怒った顔で鏡を見れば醜い顔が映って見えるでしょう。

 これと同様に、私たちが思いやりやあわれみをもって行動すれば、それと同じ善い性質のものが自分に返ってくるのです。心が道徳的で美しいなら、それは善い言葉や善い行為として、誰にでもわかるように、自然に外に現われます。その結果、おのずと善い結果が返ってくるのです。

 生まれつき容姿端麗な人は、自分は恵まれていると考えたほうがよいでしょう。お釈迦様は「生まれながらにして美しく顔立ちがよいことは幸福である」ともおっしゃっています。しかし、多くの人はその美しさのために、傲慢やうぬぼれを増大させ、その結果、周りの人たちに嫌悪され、心の幸福や精神の成長が妨げられているのです。

 お釈迦様は「美しさとは、外見ではなく内面の質です」と教えています。たとえ雄弁で、容姿が美しくても、嫉妬深く、わがままで、人を欺いているなら、その人は美しいとは言えません。真の美しさは、悪い心が完全になくなったときに現われてくるのです。

2011/09/02

When the machine takes over the brain…

The brain has infinite capacity;  it is really infinite. That capacity is now used technologically. That capacity has been used for the gathering of information. That capacity has been used to store knowledge — scientific, political, social and religious. The brain has been occupied with this. And it is precisely this function (this technological capacity) that the machine is going to take over. When this take-over by the machine happens, the brain — its capacity — is going to wither, just as my arms will if I do not use them all the time.


The question is : If the brain is not active, if it is not working, if it is not thinking, what is going to happen to it?  Either it will plunge into entertainment —and the religions, the rituals and the pujas are entertainment— or it will turn to the inquiry within. This inquiry is an infinite movement. This inquiry is religion.

Source: A Timeless Spring

2011/05/16

Our own worst enemy...

Our own worst enemy cannot harm us as much as our unwise thoughts.
No one can help us as much as our own compassionate thoughts......
.

2011/04/25

ストレスの正体(ストレス完治への道 1)



皆様もご存知のように、仏教は「心」のことを説いています。魂のことでも神のことでもなく、心のことを細かく説明しています。説明だけではなく、具体的に悩みや苦しみを解決して心を清らかにする方法も教えているのです。なぜ苦しむのか、どうすれば苦しみの原因を減らせるのか、本当の幸福とはどういうものか、完全なる平安の境地とは何か、その境地に至るためにはどうすればよいのか、ということを、きめ細かく丁寧に説明しています。ところが、これほど膨大な量で信じられないほど厳密に心の分析をしているのに、仏教にはストレスに該当する専門用語がないのです。言葉がないということは、ストレスは昔の人にはなかったもので、近年突然現れた病気だということでしょうか? 鳥インフルエンザやエイズヴィールスみたいに解決法のない、どうしようもない現代特有の病気なのでしょうか? このあたりを一度考えてみたほうがよいのです。

ストレスとは何か?


まず「ストレスとは何か」ということを理解しましょう。現代心理学や医学の世界には「ストレスはこういうもの」という明確な定義があるでしょうか? おそらく、ないと思います。なぜかと言うと、ストレスを完全に解決する方法がいまだに見つかってないからです。民間療法や薬物療法、心理療法など治療方法はいろいろありますが、どれをとっても完全ではなく、「これっ」という的中した解決方法がありません。それぞれが「こーすればいいのではないか、あーすればいいのではないか」と暗闇のなかで模索している状態なのです。たとえばストレスが原因で頭痛や胃炎が続き、医者に行ったとしましょう。医者はいろいろな検査をしますが、脳にも内臓にも異常は見つかりません。そこでどうしようもありませんから、とりあえず身体に現れている症状を抑えるために何らかの薬を出すのです。常識で考えれば、病気の原因が分からないのに薬を出すというのは大変危険なことでしょう。でもストレスの場合は堂々とやっているようです。したがって、このポイントの結論として言えるのは、私たちは「ストレスとは何か」ということを理解していないために、その解決方法も分からないでいるということです。

楽しいときにもストレスがある


それでは、どのようなときにストレスがかかるのでしょうか? 一般的には、人間関係がうまくいかなかったり、過度に忙しかったり、嫌なことがあったとき、と考えられています。しかしそれだけではありません。楽しいことをしているときにもストレスはかかるのです。「今日一日遊び過ぎた、やらなければならないことがあったのに」と。有給休暇をとって温泉や海外旅行に出かける人も多いでしょう。そのときも心のどこかで「こんなにのんびりしていてもいいのだろうか、みんな一生懸命仕事をしているのに」と不安になり、あるいは逆に、休暇の最終日が近づいてくると「あー、休みが終わってしまう。明日からまた会社に行かなくては。もう二、三日休みがほしい」と、こうやってストレスを溜めるのです。それから、寝ることでもストレスはかかります。寝ればストレスは解消されると思っている人も多いでしょうが、寝てもストレスは解消されません。逆に「寝すぎてしまった」と自己嫌悪に陥るのです。何かに没頭して夢中になっているときにもストレスはかかりますし、退屈で何もすることがなくても、ストレスはかかります。退屈だと心が暗くなって元気がなくなり、落ち込んでしまうのです。

したがって専門家のあいだでは、ストレスは生きている限りずっとあるもので、ストレスのない人はいないと考えられています。もし嫌なことをやっているとストレスがかかり、楽しいことをやっているとストレスがかからないというのなら、ストレスを定義することができますし、それを解決することもできます。嫌なことをやめて楽しいことをすればいいのだから。しかしストレスは厄介なもので、そう簡単には解決できません。好きなことをしていても、寝ていても、何をしていても、ついてくるものなのです。

能率の低下


それから私たちは疲れたりイライラすると、今やっている仕事(あるいは、やらなければならない仕事)を中断して、別のことをやりたくなる傾向があります。たとえば会社で仕事をしているとき、ちょっと疲れてくると、気分を変えるためにお茶やコーヒーを飲んだりします。そして仕事に戻りますが、少し経つと、タバコを吸ったりガムを噛んだりします。そしてまた仕事に戻りますが、十分や二十分ぐらい経つと、今度はとなりの人にしゃべりかけたり、携帯電話を見たり、新聞を開いたりするのです。それでまた仕事に戻るのです。このように、私たちは仕事に集中しないで、やることをしょっちゅう変えています。それでどうなるかというと、仕事が途切れ途切れになりますから仕事の流れが分からなくなり、やる気もだんだん薄れて能力がなくなってしまうのです。さらには「自分にはこの仕事が向いてないのかなあ」と考えて、もっと落ち込むのです。

家庭の奥さんが夕飯のおかずに天ぷらを揚げているとしましょう。そのときに電話がかかってきたり、お客さんが訪ねてきたり、子供が泣きだしたりすると、そのたびごとに料理を中断しなければなりません。せっかく熱くなっていた油も、ほかの用事をしているあいだに冷めてしまい、また熱し直すところから始めなければなりません。このように仕事が途切れ途切れになると能率が下がりますし、このときにかかるストレスは結構大きいのです。

よいストレスと悪いストレス


私たちは「ストレス」と一言で言っていますが、楽しいときにかかるストレスと、嫌なときにかかるストレスは同じものでしょうか? 退屈なときにかかるストレスと、忙しいときにかかるストレスは同じものでしょうか? 仲の良い友人と話しているときにかかるストレスと、会社の上司と話しているときにかかるストレスは同じものでしょうか? 専門家のあいだでは、ストレスには二種類あり、心身に悪い影響を与える悪いストレスと、善い影響を与える善いストレスがあると考えられています。過労や不安、人間関係のトラブルなど嫌なことがあるときにかかるストレスが「悪いストレス」で、希望や目標をもって何かに取り組んだり、感動したり、楽しんでいるときにかかるストレスが「善いストレス」とみなされています。しかし仏教の立場から見れば、先ほども説明しましたように、楽しんでいるときのストレスも「悪いストレス」のカテゴリーに入るのです。

そこで、仏教では次のように考えています。善いストレスとは、人格が向上する衝動のことです。「こんな調子ではだめだ、前進しなくては、成長しなくては」という、いてもたってもいられない状態になるのが善いストレスです。緊張感や緊迫感のようなポジティブな衝動で、破壊的な悪いストレスではありません。一つ分かりやすい例をあげますと、夜、家ですやすや寝ているとき、やけに熱さを感じて目が覚めたとしましょう。目を開けると、壁やタンスに火がついてパチパチと燃えています。あっちこっちから火が燃え上がり、家の消火器ではもう手遅れ。もう手に負えません。そのとき、普通の人は混乱して動揺して、消防署の電話番号まで忘れてしまい、どうすればよいのか分からないまま、ただうろたえるだけでしょう。そこで、頭のよい落ち着いている人はどうするかというと、状況を瞬時に把握して、安全な場所を見つけだし、さっと逃げるのです。この「逃げよう」という緊張感が善いストレスなのです。仏教の世界では、説法するとき、時々ものすごくストレスがかかるように話をすることがあります。脅迫するような感じで、聞いている方々に、いてもたってもいられなくなるような状態をわざとつくるのです。「では、あなたはどうしますか」と。そうすると、勇気のある人は「逃げる」気持ちになるのです。解脱を決めるのです。それで解脱するのです。このときにかかるストレスは並大抵ではありません。究極のところまで追い込まれて、巨大なストレスを感じないと、悟りには至れないのです。

したがって「人格を向上させよう、心を清らかにしよう、善い行為をしよう」と自分を奮い立たせるポジティブな衝動が「善いストレス」で、それ以外のストレスは「悪いストレス」だと仏教では考えています。

ストレス=貪瞋痴


冒頭でお話した「なぜ仏教にはストレスに対する専門用語がないのか」という質問に対する答えをお出ししましょう。仏教から見れば(悪い)ストレスとは、貪りと怒りと無知のことです。ですから、仏教にはあえてストレスに対する専門用語がないのです。「ストレス=貪瞋痴」だと理解すれば、ストレスを明確に理解することができますし、それを解決する方法も見えてくるのです。(続きます)


A. スマナサーラ長老 
ストレス完治への道① ストレスの正体

文責:出村佳子

2011/04/24

自己中心を乗り越える

自分がされなくないことは、他人にすべきではない。
自分がしてほしいことを、他人にすべきである。

これは古いことわざですが、現代になっても当てはまります。
この言葉にならって、私たちは「自分のことだけしか考えず、他人のためには何もしない」
という自己中心的な性格を乗り越えるべきでしょう。

スリダンマーナンダ長老