2012/09/01

『マインドフルネス』気づきの瞑想


マインドフルネスー気づきの瞑想


本書が出版されてから 20年が経ちました(現在では30年近く)。

そのあいだに 「気づき(マインドフルネス)」が、現代の社会や文化のあらゆる領域――教育・心理療法・芸術・ヨーガ、医療・急速に進歩する脳科学などの分野――にますます影響を与えています。

そして、ますます多くの方がさまざまな目的で――ストレス軽減や心身の健康増進、円滑な人間関係の構築、よりよい仕事のためなど――人生をより有意義にすごすために「気づき(マインドフルネス)」を求めています。

その目的がいかなるものであれ、本書をお読みなる皆さんが幸せへの道を見いだせることを心より願っております。
―バンテ・H・グナラタナ

◆世界で読みつがれるヴィパッサナー瞑想の最良入門書


マインドフルネス(ヴィパッサナー、気づきの瞑想)の実践入門書として、米国で出版以来20年以上にわたり読みつがれ、世界15カ国で翻訳されているロングセラー。

仏教の知識がなくともわかる平易な言葉で、ヴィパッサナーを実践するために必要な情報を余すところなく伝え、確かな評価を得ている。

ラリー・ローゼンバーグ(『呼吸による癒し』著者)や、ジョン・カバット・ジン(マサチューセッツ大学医学部名誉教授)など多くの瞑想指導者、医師、実践者が絶賛してやまない名著。本書は、2011年に発行された最新エディションの日本語版である。


◆帯文(アルボムッレ・スマナサーラ長老より)

世界の瞑想指導者たちのトップリーダーが語る、
気づきの実践方法です。
西洋人に語りかけたこの本は、瞑想に興味のある方々に刺激を与えるに違いありません。
著者は気づきの実践について一流の研究者でもあります。

 関連記事 ➡ マインドフルネス



マインドフルネス 気づきの瞑想 グナラタナ著 出村佳子訳
バンテ・H・グナラタナ 出村佳子訳
サンガ 2012-08-23
楽天ブックス

損のない生き方 1


損のない生き方「損得勘定の智慧 1」

「入るもの―出るもの」と言えば、皆さんは何を思い浮かべるでしょうか?

お金なら収入―支出、プレゼントなら貰う―贈る、会話なら聞く―話す、知識なら学ぶ―教える、情報なら受信する―発信するなどいろいろあるでしょう。私たちの日々の生活は、このように「入る―出る」の関係で成り立っています。そして人生を幸せに、賢く生きるためには「何が入り、何が出たか、どのくらい入り、どのくらい出たか」とモノの出入りを冷静に勘定して、管理することが大切なのです。

これから数回にわたって「損―得」「出る―入る」「与える―得る」をキーワードに、お釈迦さまの損得勘定の智慧を学んでみましょう。

因果法則に見られる give & take


生きる上で「損か、得か」と勘定することは必要でしょうか?


一般的には「損得を計算して行動するのは利己的で意地汚い」と思われているようです。そう思うのは、世の中の仕組みを理解してないからです。実際のところ、私たちは「損得」を考えずに生きていられません。なぜなら人間関係というものは、基本的に「損得」の関係、あるいは「与えて得る」という関係で成り立っているからです。英語ではこれをgive& take(ギブ・アンド・テイク)と言います。仏教から見ればgive & get(ギブ・アンド・ゲット)と言う方が正しいのですが、ここでは皆さんが聞き慣れているギブ・アンド・テイクを使って話しを進めることに致しましょう。


このギブ・アンド・テイク(与えて得る)という関係は普遍的な法則です。人間関係だけでなく物質の世界でも、自分から何かを与え、相手から何かを獲得して成り立っています。たとえば鉄は空気中の酸素に触れることによって錆びます。鉄は酸素の電子を受け取って安定し、酸素は鉄に電子を与えることによって安定する。互いに「やり取り」を行って、それぞれが安定して成立しているのです。このように、物質も、人間も、一切のものが、相互に「与えて得る」という関係で成り立っています。これは宇宙の法則であり、仏教の因果法則の一部なのです。

それでは「与えて得る」の働きが、私たちの日常生活の中でどのように行われているか、具体的な例を挙げて説明してみましょう。

① X >Y(XがYより大)の場合、X→Y または X←Y


XとYは人を指しています。XはYよりもモノをたくさん持っているという状態です(X>Y)。このときモノを多く持っているXが、少しか持っていないYに「与える」「行く」ということが起こります(X→Y)。


逆に、XはYから「取る」「奪う」「貰う」ということも起こるのです(X←Y)。矛盾に思われるかもしれませんが、実際の社会を観察してみますと、金持ちは貧しい人からお金を奪っているのではありませんか? 資本家は労働者を不当に安い賃金で雇用して、長時間働かせることによって「搾取」したり、あるいは労働者がちょっとミスをしただけで給料を減らしたりすることもあるでしょう。これは給料を「奪う」という意味でもあります。頭だけで考えれば「ある人」が「ない人」に与えることが当然だと思われますが、現実の世界では逆の方向に流れるケースも少なくないのです。親子関係においても、親が子供に与えるだけというケースはほとんどありません。子供は親に対して、喜びとか楽しみなど多くのものを与えているのです。

② X=Yの場合、「合併」または「分離」


 XとYが同等のレベル(X=Y)の場合、二つは合併するか、または分離するという関係です。「合併する」というのは、たとえば夫婦が共働きで二人とも同程度の所得があるとしましょう。新しい車を一台購入することにします。しかし一人分の貯金では中古車しか買えません。そこで双方が「合併」してお金を出し合って新車を買うといった関係です。


また「分離する」とは、たとえば兄弟姉妹というものは、たいてい小さい時は同じ部屋で勉強したり遊んだりと仲が良いものです。でも二人とも成長しますし、それほど年齢の差もありませんから、思春期頃になると姉は「私の部屋に入らないで」と弟を追い出し、弟も「お姉ちゃんといっしょの部屋はいやだ」と言って出て行くのです。つまり姉と弟は同程度の力であり、二人の間に反発力が働いて「離れる」ということが起こります。これは決して喧嘩したという悪い意味ではなく、自然の法則なのです。

③X・Yの場合、X―Y


 次はXに有るものが(X)Yには無い(Y)という状態です。この場合、YはXから無いものを「貰い」、XはYに「分けてあげる」という関係が成り立ちます。たとえばXとYが二人でどこかへ出かけました。Xは弁当とお茶を持って行きますが、Yは近くの店でお茶を買うつもりで弁当だけを持って行きます。ところが現地に着いても店はなく、お茶を買えませんでした。結果として、XはYにお茶を「分けてあげる」ということが起こるのです。

④XとYが結合してZになる


異なる二つの性質のもの(XとY)が結合して、別のもの(Z)になるという関係です。たとえば物質の世界では、水素原子と酸素原子が結合して、別の性質である水になりますし、政治の世界でも、ときどき異なる二つの党派が結合して、新しい政党を組織することもあります。

⑤ (XーaとYーb) で (X+bとY+a) の関係


この関係を考えてみましょう。たとえばコンビニへ弁当を買いに行きます。弁当を買えば自分の財布のお金は減ります。(X=自分、a=お金で、Xーa)。またコンビニの弁当も一個なくなります。(Y=コンビニ、b=弁当で、Yーb)。換わりに自分はコンビニの弁当を得て(X+b)、コンビニはお金を獲得します(Y+a)。この関係は、自分が持っているものを出すことによって相手のものを得る、というギブ・アンド・テイクの関係です。


そしてこの時に「損した、得した」という問題が生じるのです。コンビニで六百円支払って弁当を買いましたが、隣のスーパーに行くと同じ弁当が五百円で売っていました。そうするとたいていの人は「損した」と感じるでしょう。ここで損得の問題が成り立つのです。比較しなければ損でも得でもなく、この弁当は六百円だと落ち着いていられますが、比較したとたんに損得の感情が生まれるのです。このように損か得かの感情は比較をした結果、生じるものなのです。

損をしない生き方を


以上、考察したように、私たちは生まれた瞬間から、この世を去る瞬間まで「与えて得る」の人生、または「損得」の人生を生きています。


人間関係は「損得」の原則に基づいて成り立っているのであって、損得を抜いた「美しい人間関係」という綺麗事はありえないと言ってもよいでしょう。この事実をよく理解することが大切です。

つまるところ、自分が他人と仲良くしているのは、その人から何かを得たいからであり、また他人が自分に接近しているのは自分から何かを欲しがっているからなのです。これは自然の法則です。何も得るものがなければ近づく必要はありません。得るものがあるからこそ、私たちは他人と仲良くして、付き合っているのです。

この損得のシステムをよく理解して、私たちは「損をしない生き方」を選択することが大切です。「損」をするだけでは自分がいずれ壊れてしまいます。だからといって、不正的な手段を使ってまで「得」することだけを追い求めていると、今あるものも失って、やがては貧困に陥る羽目になります。ギブ・アンド・テイクの原理は宇宙の法則ですから、悪い行為をすれば必ず不幸になるのです。

では、どうすれば損のない生き方ができるのでしょうか?

それには悪の道を避け、生き方を改良し、法に適った正しい生き方を営むことです。

損得勘定をしない人は「損」をする


次に、損得勘定に無頓着で無関心でいるとどうなるかを考えてみましょう。


自分の損得を勘定できない人は、他人の損得も勘定できません。ですから、自分のことしか考えられず、他人とうまく付き合うことができない自己中心的な性格になります。疑い深く、他人を信頼できず、優柔不断で、人に何か頼まれても「自分にはできない」と引きこもったり、「私はダメな人間だ」と自信を失ったりしがちです。また口のうまいセールスマンに「これはお買い得の商品ですよ」と勧められると、自分に必要かどうかは計算せずに、すぐさま飛びついて買ってしまい、お金を浪費することもあります。

このように損得勘定に欠落している人は、損ばかりで得することがありません。「得る」ということは、たとえ額に汗して努力しても簡単なことではないのです。お金もそうでしょう。得るには大変な苦労を要しますが、無くなるのは簡単です。損得の勘定をせずに、曖昧で、いい加減に生きている人は、得るものがなく損だけの人生になるということをここで覚えておいてください。
(続きます)

アルボムッレ・スマナサーラ長老法話

文:出村佳子

2012/05/01

慈しみ

生きとし生けるものが、
健康で、幸福で、安穏でありますように。

危害がありませんように。


困難がありませんように。


問題が起こりませんように。


願いごとが叶えられますように。


避けることのできない困難や問題に出あったとき、

忍耐、勇気、理解、決意をもって、乗り越えられますように。

マインドフルネス -気づきの瞑想
バンテ・H・グナラタナ(著)より

★関連記事 ➡ マインドフルネス

2012/04/26

ストレス完治への道〈もくじ〉

スマナサーラ長老法話

1 ストレスの正体
2 心を直視する
3 感情の入れ替え
4 感情のルーレット
5 慈しみの心で人生を縫う

気づくこと

ヴィパッサナー瞑想とは、気づきの実践です。
今起きていることに、気づくことです。

もし 何かに夢中になっていて、
それをやめることができないなら、
それに「気づく」ようにしてください。
それも、自分です。

「気づく」ことによって、
私たちは自己を発見する旅に
一歩前進することができるのです。

グナラタナ長老


2012/03/17

智慧と善行為(4)


生命のネットワーク


「生きる」ということは「行為をする」ということです。そして、その諸々の行為は互いにネットワークをつくって働かなくてはなりません。行為というものは、いつでもそのように働いているのです。

私たち一人一人は、社会ではたいしたことをやっていません。会社で仕事をしていても、一人一人は本当につまらないちっぽけなことしかやっていないのです。

でも、全体的に見ると、社員が互いに調和して仕事をすることによって、会社という大きなシステムができあがっているのです。

たとえば航空会社は大規模な会社ですが、一人一人を見ますと、それぞれはほんの小さな仕事しかやっていません。機内の乗務員さんたちがやっていることは何かというと、ドアを開けたり閉めたりするとか、アナウンスをするとか、飲み物や食べ物を配るとか、お客さんがシートベルトを締めているかチェックするとか、その程度のことです。ものすごくつまらない仕事でしょう。でも、その仕事がないと全体が壊れてしまうのです。

もし乗務員さんがいなかったら、お客さんは勝手に座って足をあげたり、俺は恐くないからシートベルトはしないぞと言って立ち歩いたり――。そんな勝手なことをすると、大変危険です。ですから乗務員さんはとても大切な仕事をしているのです。

それから飛行機から全員降りたところで、今度は清掃員さんたちが乗ってきます。サッと掃除をして機内をきれいにし、忘れ物でもあったら所定のところに届けます。
 これもつまらない仕事ですが、全体的に見ますと、なくてはならない仕事なのです。

同様に、私たちの身体の内部でも一個一個の臓器が働いていますが、それぞれはたいした仕事はやっていません。でも全体的なネットワークになりますと、それぞれが欠かせない仕事をしているのです。

たとえば心臓は収縮と拡張の動きをただ単調にくり返すだけのポンプの働きで、本当につまらない仕事しかしていません。でも全体的に見ますと、全身に血液を送りこむという命に直接係わる大変重大な仕事をしているのです。

そういうことで、つまらないことだと思われる行為でも、システム全体からみると欠かせない役割を果たしていることがわかります。

それで、会社であれ、社会全体であれ、この一個の身体であれ、一つ一つの行為が全体的なシステムを支えているということが理解できます。

個人の人生のみならず、社会全体が調和して平和に繁栄しつつ生き続けるためには、私たちは自分に与えられている小さくてつまらない行為を大事に行わなくてはいけないのです。

善行為とはこのようなものだと理解してください。

会社でつまらない仕事を割り当てられても、なんでこんなくだらない仕事をやらなくちゃいけないのかと考えて仕事をさぼったり、腹を立てたり、いい加減にやったりすると、それは明らかに悪行為になります。 家庭でも同じことが言えます。

社会全体の調和と繁栄を壊す行為は、当然、悪行為なのです。

人生は善行為をするか悪行為をするかということで成り立っています。「善行為をすべき」ということは、いうまでもありません。

善行為をすると、人生はうまくいきますし、他との調和もきちんと保たれるのです。 

 (続きます)

 
 根本仏教講義「智慧と善行為④」
スマナサーラ長老法話

2012/03/03

智慧と善行為(3)


調和し、補い合い、協力する


最初に、二つ問題を出します。

一番目の問題は、善行為・悪行為というのは本当に世の中にあるのでしょうか? ということです。

皆さまはおそらく考えたことがないと思います。この答えはいったん置いておいて、次の問題にうつります。

「生きる」とは、どういうことでしょうか?

生きている上での行為です。生きている人が善行為や悪行為をするのですから、「生きている」ということが一番大事になります。

「生きている」ということを忘れてはなりません。世の中の人はそこを忘れているようです。それでさまざまな犯罪が現れてくるのです。

「生きている」ことが土台であって、その土台を壊すべきではありません。土台を壊すことは、明らかに愚かな行為でしょう。これは、立派な家を建てて、そのあと家の下から穴を開けて土台を壊すようなものです。土台を壊すと、建物全体が崩壊します。それでは話になりません。

私たちは何をやるにしても、まず「生きている」のです。
シンプルに聞こえるかもしれませんが、これはとても大事なことです。
生きているから話します。何を話すかというのは、後の話で、生きていなければ話すという行為もありません。善行為も悪行為もないのです。


「生きる」ことの中身



そこで、「生きるとは何か」ということをまず考える必要があります。
でも、むずかしく考えたら困ります。世界の誰にもその答えを見つけることはできませんでした。お釈迦様以外、誰にもできなかったのです。

「生きる」ということは「行為をする」ということです。
私たちは無数にさまざまな行為をしています。意識的であろうが無意識的であろうが、さまざまな行為をしているのです。

呼吸をする、生きているからです。
体内に血液が流れる、生きているからです。生きていなければ、そんな行為はありません。
見る、聞く、話す、すべてが行為です。
座る、歩く、食べる、寝る、考える、呼吸する、大小便する、運動する、働く、休む、いろんなことをやっています。
これらは全部、生きているからやっていることです。

「生きる」ことの中身を見てみると、「行為」しかないのです。行為以外は何もありません。

ですから、「生きる」ということの箱を開けて、その中身を見てみる必要があるのです。

私たちは箱のふたを開けないで、「命は神様から授かったものだ」とか「尊い魂だ」などと言っています。

箱を開けないでいて、箱の周りでいろいろな意見を言っても、それはまったく意味がないのです。

そこで、箱のふたを開けてみます。そうすれば一発で中身がわかるでしょう。もう推測する必要も議論する必要もありません。

お釈迦様は「生きる」という箱のふたを開けてみたのです。開けてみたら、すべて行為のみ。呼吸することも行為ですし、考えることも行為、見ることも行為、聞くことも行為です。私たちはそれに「生きる」と言っているのです。血液が流れることも行為ですし、細胞一個一個がいろんな行為や働きをしています。その働きが止まったら「死」です。

ですから「生きる=行為」です。たくさんの行為があるでしょう。行為をするのは、生きているからなのです。



その行為は善か悪か?



次に、行為は善か悪か、ということを判断しなければなりません。

判断は簡単です。
生きることを破壊する行為は悪行為です。
たとえば、「生きる」というシステムの中で一個の組織、あるいは一個の細胞だけが調和を乱して勝手に反対の行為をするとしましょう。どうなるでしょうか? 

全体が徐々に壊れていくのです。生命は「生きる」という行為の箱の中で、呼吸をしたり、食べたり、消化したりなど、さまざまな行為をしています。あらゆる行為が互いに調和して支え合い、補い合って働いているのです。

どんな細胞にも,酸素が必要です。もしすべての細胞が酸素を探しにどこかへ勝手に行ってしまったらどうなるでしょうか?

困ります。身体に細胞がいなくなってしまいますから、身体全体が機能しなくなってしまうのです。

細胞にはそれぞれ仕事があって、それぞれ別々の役割を担っています。
たとえば、肺は酸素をとり込んで二酸化炭素を排出するという働きがあります。そこで調和して仕事をしているのです。

肺には酸素が入りますが、その酸素を身体中に運ぶものが必要になります。その役割を、血液が担うのです。
細胞が生きるためには栄養素も必要です。もし細胞が「お腹がすいたからどこかへ食べに行くぞ」と言って、勝手に自分の持ち場を離れてしまったら、話にならないでしょう。
何かが栄養素を運んであげなければなりません。そこで、運送屋の血液が栄養素も運ぶのです。

では、廃棄物はどうしますか?
それも血液が排出器官まで運んでくれます。このように血液はものの見事に酸素や栄養素を運び、いらないゴミは体外へと運んでくれるのです。

もし、この血液がストを起こしたらどうなるでしょうか?
仕事しなかったら? 
自分の仕事をストップした時点で、そちらの細胞は壊死してしまうのです。

これでおわかりになると思いますが、身体の中の行為がお互いに調和して、補い合って、協力し合って働いている場合、私たちは何のことなく健康で無事に生きていることができます。

このシステムにちょこちょこと異常が起きてしまうと、健康は崩れてしまうのです。

正常な細胞には、寿命というものがあります。自分の役割を終えたら死滅し、新しい細胞と入れ替わるのです。

しかし、ときどき新しい細胞が次から次へと生まれる場合もあります。古い細胞と入れ替わるためではなく、勝手にどんどん増え続けるのです。これが「がん細胞」と言われるものです。

がん細胞のほとんどは、死滅することなく激しいスピードで増殖を繰り返していくのです。

「成長する」ということは一般的に悪いことではありませんが、がん細胞が成長するのは困ります。なぜかというと、がん細胞は他の細胞と調和していないからです。

たとえばケガをしたとき、その傷口では新しい細胞がすごい勢いでできあがって、みるみるうちに傷口を補ってくれます。それはすごい速さです。それから、ストップします。傷口がきれいに治ったところで、ストップするのです。そこに調和があります。

もし新しい細胞が生まれるは生まれるは、きりがなく生まれて止まらなかったら、でっかいデキモノができます。これを「がん」と言うのです。



調和することは善行為



「生きる」ということは「行為をする」ことで、その行為は互いにネットワークをつくって、調和し、補い合い、協力し合って働くということが決まっています。
そうでなければ、生命は壊れてしまいます。
そこで、「善行為・悪行為」ということが成り立つのです。これが、最初に出した質問「善行為・悪行為は本当にありますか?」の答えです。

善行為・悪行為は本当にあります。成り立ちます。
生きることは行為をすることであり、その諸々の行為が調和して働いている場合は「善行為」、調和していない場合は「悪行為」なのです。

私たちは毎日ごはんを食べなければなりませんが、何を、どれぐらい、どのように食べればよいのでしょうか? 

ちゃんと調和して食べなければならないのです。
もし「今日は腹いっぱいお肉を食べよう!」と、食べ過ぎて具合が悪くなって病気になった。これは悪行為です。調和を壊してしまったのです。

また、おいしいからといってチョコレートやケーキなど甘いものばかり食べていると、調和が崩れて糖尿病などの病気になります。ですから、欲張って食べることは悪行為です。

仏教は結構厳しいのです。
皆さまは、大胆に他の人々を助けることだけが善行為だと思っているかもしれませんが、食事の量を適量に抑えることも善行為です。
食べ物を身体に適量摂ることで、身体はうまく調和を保って働くことができます。これが善行為です。
多食や偏食は悪行為なのです。

この「調和を保つことは善行為である」ということを理解することが、智慧です。
ですから、世の中でやっている大胆な善い行為だけが善行為ではありません。
どこかの施設にいる子供たちに匿名でランドセルを50個送った、というのは当然善い行為ですが、善行為はそれだけではないのです。

では、その人の行為が私たちにとって派手に大きく見えるのはなぜでしょうか? 

それは、私たちがあまりにもお金にべったり執着しているからです。本当は他人に1000円もあげたくないほどケチなのです。それで「誰かがランドセルを50個も送った」と聞くと、びっくりしてニュースになり、派手に大げさにそれを報道する。寄付した側からすれば、自分にはお金がちょっと余分にあるから子供たちに何か買ってあげたほうがいいんじゃないか、とそのぐらいの気持ちでやったことだと思いますが。

善行為は、大胆な行為だけではありません。
自分の身体に必要な量だけ食べること、これも善行為です。反対に、必要な量よりも多く食べたなら、それは悪行為なのです。(続きます)

 根本仏教講義「智慧と善行為③」

2012/02/24

智慧と善行為(2)


智慧のある人とは


善い人か悪い人か、智慧のある人か愚か者か、ということは、「生命にたいしてどれぐらい慈しみの行為をするか」というところで測られます。

どんな大学を出たかではありません。博士号を三つも持っているとか、肩書きはどうでもよいのです。

大学を卒業していなくても、大勢の人々のために役立つ活動をする人はいくらでもいますから。

共に生きている仲間をどれぐらい助けてあげるか、人々の生活をどれぐらい楽にしてあげるか、人々の苦しみをどれぐらい減らそうと頑張っているか、このように自分のことを後回しにして頑張る人というのは、当然立派な人です。

その人のことを「智慧のある人」というのです。

 
定義は簡単です。
「慈しみのある人が智慧のある人で、慈しみのない人が愚か者」ということです。



世の中で犯罪を起こす人たちも、当然、俗世間の知識はあります。知識がなければ、テロ行為はできないでしょう。高度な知識がなければ、計画をたてたり組織をまとめたりすることはできないのです。



愚か者か智慧のある人かということは、一般世界ではいろいろな定義があるでしょうが、仏教では「慈しみがあるか否か」というところで測ります。



生命を慈しむ人が、智慧のある人です。何の差別もなく、民族的にも、宗教的にも、経済的にも、何の差別もしないで、とにかく生命を慈しむ、それこそが立派な人間なのです。


善行為の目的



「善行為」ということについて、どの宗教でも、一般社会でも、「善行為をしましょう」と言っています。

仏教でも「善行為をしましょう」と言っています。しかし、仏教の場合はちょっと違います。「智慧を開発しなければ意味がない」と言うのです。

いわゆる、いくら善行為をしても、やっただけでは意味がありません。

何かをやるならば、何らかの目的が必要ですし、その目的に達しなければならないのです。

たとえば飛行機でハワイへ行って、次の便で日本に戻って来たとしましょう。それで「私はハワイに行って来た」と言う。
でも、それでは何のためにハワイに行ったのかわかりません。意味がないのです。
ハワイに行くなら、何か目的があるはずです。ビジネスで行くのか、観光で行くのか、どこを訪問するのか、何を見るのか、どんな遊びをするのか、そこで計画をたてて行って、行った目的を達成したなら、その人には「私はハワイに行って来た」と言えるのです。飛行機に乗って往復しただけでは何の意味もありません。

同様に、善行為をしただけではあまり意味がありません。何か目的を設定して、その目的に達しなければ意味がないのです。

仏教が設定する目的は、「智慧を開発することです。

もし、善行為をしたけれども智慧は何も開発しなかった、というならば、「ご苦労様」ということで終わってしまうのです。
 (続きます)

  根本仏教講義「智慧と善行為②」

2012/02/18

智慧と善行為(1)



智慧が開発するか否か



善行為って何でしょうか?

社会では「善行為をしましょう」ということは当たり前になっています。

仏教でも、そのように言っていますが、仏教では善行為のことは、そんなに大げさにしていません。

一番ポイントにしているのは「智慧が開発するか否か」ということです。

仏教の教えは「智慧の教え」ですから、「智慧」のことばかり教えています。他にも道徳など教えは大量にありますが、智慧が一番上にあって、他の教えは飾りのようなものです。智慧が王冠です。智慧があれば、他のものはいっしょに付いてくるのです。

なぜ、智慧が一番大事なのかといえば、これには理由があります。

「智慧がない」ということは「無知」ということです。無知で幸せになるということはありませんし、無知だから成功したということもありません。

お釈迦様は、「災難や危害、苦難などの不幸というものはすべて無知、あるいは愚か者から生じるのであって、智者からはいかなる苦しみも起こりません」とおっしゃっています。

ですから、この世の中で何か不幸なことや理不尽なこと、不公平なこと、人々に不幸を招くことが起こったならば、その手綱を握っているのはいつでも誰か愚か者なのです。

世の中には危険なことがたくさんあります。
テロ行為や戦争、暗殺、人殺しなどがありますし、強盗や詐欺、ごまかしなどもあります。いろいろな恐ろしいことがあります。きりがありません。そこで不公平なことや災難、苦難に陥る出来事があったならば、それは必ず無知な人の仕業なのです。

では、そうした無知な人たちは知識がない愚か者なのでしょうか? 
たとえば綿密な計画をたててテロ行為をする人たちはバカでしょうか? 

実は、彼らは結構勉強している優秀なエンジニアや科学者たちです。貧乏人でもありません。豊かで、勉強している知識人たちです。ですから、本当に愚か者でしょうかという疑問がでてきます。

仏教では、大学で知識を学んだから、有名大学を卒業したからといって、智慧のある人だとは言いません。

「やっている行為は何ですか」というところを見るのです。

智慧というのは、科学や工学、経済学などの知識を学んで得られるものではありません。知識を得ても、愚かなままなのです。

どこで愚かと決めるかといいますと、「生命にたいして慈しみがない、どうなってもいい」と生命のことを心配しない人のことを、「愚か者」というのです。

たとえば原子爆弾を開発して、さらに高性能のものを開発した科学者たちは、私たち凡人よりはずいぶん勉強ができる知識人たちでしょう。

彼らは一流の大学を卒業した人たちばかりですが、実際は極限的な愚か者です。なぜなら、人類に多大な危害をもたらしているのだから。

彼らに関心があるのは、自分の研究だけで、研究データが出るか出ないか、それだけに関心があるようです。放射性物質があちこちに拡散したとき、言うことは「では、放射性物質がどのように人体に悪影響を与えるかを調べましょう」と、それだけ。「人類に多大な危害を及ぼすこんな恐ろしいものをつくってはいけない」とは言わないのです。

ですから、大学の研究室でずっと研究しているからといって、肩書きが1メートルぐらいあるからといって、その人が智慧のある人だと絶対に思わないでください。

生命のことを心配するか、生命のために何か役立つことをするか、人類の模範になるような人物か、若者たちがモデルにした方がいい人間か、必要なのはこうしたことなのです。
 (続きます)


2011/12/27

預流果に覚る条件(最終)


マハーナーマ経


三番目の経典があります。

これはこれまで説明してきました一番目と二番目の経典と同様、釈迦族のマハーナーマさんのエピソードを用いて、別の表現で「預流果の特色」を説明している経典です。

経典の初めのところは同じですので省略いたします。


マハーナーマさんが、同じ釈迦族のゴーダさんのところへ行き、質問するところから始まります。

マハーナーマさんもゴーダさんも預流果に覚っていましたから、預流果同士の会話です。

ただ同じ預流果でも、人によって言葉の表現上、微妙に個人差があるのです。

でも中身や内容は同じで、預流果に覚っているという事実に変わりありません。

それをこの経典で説明しているのです。


預流果に覚る条件『マハーナーマ・スッタ』



釈迦族のマハーナーマが釈迦族のゴーダのところへ行き、このように言いました。

「ゴーダよ、あなたはどのように思うか。どのぐらいの特色(能力)が身に付けば預流果だと言えるか。堕落せず確定して解脱へ向かうのか」


ゴーダは答えました。

「私は三つだと思う。三つの特色が身に付けば預流果だと思う。仏陀にたいする揺らぎない信と、法にたいする揺らぎない信と、サンガ(僧・僧団)にたいする揺らぎない信を確定していることである」


ゴーダさんは「仏法僧にたいして揺らぎない信が確定していれば預流果です」と言いました。

いわゆる、仏陀の九つの特色と、法の六つの特色と、サンガ(僧・僧団)の九つの特色は「そのとおりである」と、しっかり確信していることです。

ゴーダさんは自分が預流果に覚っていて、自分の経験から語っているのであり、他人から聞いた話をただ言っているわけではありません。

自分の預流果の状態を、そのように説明したのです。


次に、ゴーダがマハーナーマに尋ねました。

「あなたはどう思うか。どのぐらいの特色が身に付けば預流果だと言えるか」


マハーナーマは答えました。

「私は四つの特色が身に付けば預流果だと思う。仏陀にたいする揺らぎない信、法にたいする揺らぎない信、サンガにたいする揺らぎない信を確定していること、そして戒律を守っていることである。壊れることなく汚れることなく破れることなく、戒律を守っていることである」


このように、二人は意見がちょっと異なりました。

ゴーダさんは「三つの条件が揃えば預流果だ」と言い、マハーナーマさんは「四つの条件が揃えば預流果だ」と言いました。

ただ意見が異なっても、二人は仏教徒で預流果に覚っていますから、ごちゃごちゃくだらない喧嘩や言い争いはしません。


そこで意見が分かれましたが、それぞれがしっかりした意見ですから、これは二人にとっては解決することができません。

それでゴーダさんはこのように言いました。

「マハーナーマよ、待とう。これについてはお釈迦様にお尋ねしよう。どちらの意見が完成された正しい意見かは、お釈迦様しか分からないのだから」


そこで、マハーナーマさんとゴーダさんはお釈迦様のところへ行き、礼拝して座りました。


マハーナーマさんはお釈迦様の意見を聞く前に、先にお釈迦様にこれまでの二人の意見の違いについて話し、続けてこう言いました。


「あることに関して、比丘サンガ全員が一つの意見で、お釈迦様だけが別の意見をもち、意見が異なった場合、私はお釈迦様の意見に従います」


すべての比丘サンガが一貫して述べる意見であっても、それがお釈迦様の意見と違っている場合は、マハーナーマさんは何の躊躇もなく、お釈迦様の意見が正しいと決めるのです。

つまり、マハーナーマさんはそこまで仏陀のことを信頼しているということなのです。


さらにマハーナーマさんは続けて言います。

「あることに関して、比丘サンガ全員と比丘尼サンガ全員が一つの意見で、お釈迦様だけが別の意見をもち、意見が異なった場合、私はお釈迦様の意見に従います。

あることに関して、比丘サンガ全員と比丘尼サンガ全員、在家の男性全員が一つの意見で、お釈迦様だけが別の意見をもち、意見が異なった場合、私はお釈迦様の意見に従います。

あることに関して、比丘サンガ全員と比丘尼サンガ全員、在家の男性全員と在家の女性全員が一つの意見で、お釈迦様だけが別の意見をもち、意見が異なった場合、私はお釈迦様の意見に従います。

あることに関して、比丘サンガ全員と比丘尼サンガ全員、在家の男性全員と在家の女性全員、すべての神々、悪魔、梵天、沙門、バラモン等、すべての生命が一つの意見で、お釈迦様だけが別の意見をもち、意見が異なった場合、私はお釈迦様の意見に従います」


この経典で何が言いたいのかといいますと、「仏法僧にたいする揺らぎない信を確立する」とは、このぐらいの自信があるということなのです

神々、梵天、悪魔であろうが、比丘・比丘尼サンガ全員であろうが、在家の男性・女性全員であろうが、誰であろうが、皆が一つの意見をもっていて、お釈迦様が別の意見を言うなら、私は「お釈迦様が正しい」と、お釈迦様に従います。

これは口先だけでなく、自分自身でしっかりと「お釈迦様が正しい」と理解して確信しているのです。これが「揺らぎない信」ということです。


このように、マハーナーマさんはお釈迦様の意見を聞く前に、自分がどれほどお釈迦様を信頼しているかということを言いました。世界の生命すべてが「違う」と言ったとしても、私は「お釈迦様が正しい」ということを、そこまで確信していますよ、と。


では、なぜマハーナーマさんは先にそのようなことをお釈迦様に言ったのでしょうか?


ゴーダさんとマハーナーマさんの意見はそれぞれ違っていました。

それでもし万が一お釈迦様が、ゴーダさんの答えが法に合っていますと言われたならば、王家であるマハーナーマさんの立場が悪くなります。

それでも、お釈迦様はマハーナーマさんの立場などを全く気にせず回答してください、と言いたかったので、マハーナーマさんは仏法僧に対する揺らぎない信があることを発表したのです。


お釈迦様はマハーナーマさんの言ったことに、何も言いませんでした。そしてゴーダさんにこう聞きました。

「マハーナーマがこのように言っているが、あなたはマハーナーマにたいし、何か言いたいことはあるか?」


ゴーダは答えました。

「何も言うことはありません。(マハーナーマのお釈迦様にたいする揺らぎない信は)すばらしい。見事です」と言いました。


ここで経典は終わっています。中途半端なようですが、わざと終わっているのです。

ゴーダさんの言ったことについて、お釈迦様は何も答えていません。

そこで結論は何かと言いますと、「マハーナーマさんの言うことはその通りである」ということです。

「預流果の条件は四つで、戒律は必要」ということなのです。


だからといって、ゴーダさんの意見が間違っているということではありません。

これは言葉上の問題だと思います。

ゴーダさんも預流果ですが、戒律の条件は言いませんでした。

それはおそらくゴーダさんにとっては戒律を守ることは当たり前で基本的なことで、誰でも守らなければならないもので、特別に預流果の条件として出さなくてもいいのではないか、仏法僧にたいする揺らぎない信を確定することの方を強調した方がいいのではないか、という気持ちがあったからかもしれません。

しかしマハーナーマさんはそうではなく、「戒律を守ることも預流果に覚る条件である」と、はっきり言い、お釈迦様も「その通りである」と示されたのです。


(続きます)


・・・・・・・・・・・・・・・

法話:スマナサーラ長老

預流果に覚る条件『マハーナーマ・スッタ』

根本仏教講義 ➤ 目 次

編集/文:出村佳子

・・・・・・・・・・・・・・・





2011/12/10

預流果に覚る条件(6)


マハーナーマ経


多くの方が仏法僧を信じていますし、戒律も守っています。

でも「あなたの信は確かですか? 揺らがないですか?」

と聞くと、「私はちょっと自信がありません……」と言う人がほとんどです。


預流果に覚る条件『マハーナーマ・スッタ』



もし、いかなる場合でも「私の仏法僧にたいする信は変わらない」という自信があり、「誰に、どんなに誘惑されても、私は戒律を破りません」という決意があるなら、預流果です。



この「破るはずがない」という堅固な信、それがあれば預流果なのです。


「状況によって、どうするかわかりません。破るかもしれません……」というのは、なさけない生き方です。「今日は嘘をつきませんが、明日はわかりません。時と場合によって嘘をつくこともあります……」と言うならば、人格的にはまだまだしっかりしてないということです。

人格者というのは「破りません」と、はっきり決まっているのです。



預流果に覚っているなら、「仏法僧にたいする信」が揺らぐはずがありません。

戒律に関しても、誰に何を言われても、「絶対に破りません」という堂々たる態度です。

恐い上司に脅されても、「私はやりません」と、はっきりしています。


では、殺されそうになったら?


冗談じゃない。たとえ自分が殺されそうなっても、戒律を破ることはありません。

そのぐらい堅固な確信があり、そのように生きているなら、預流果の境地なのです。


預流果に覚ったら、解脱は確定です。

堕落することはありません。

地獄に落ちることも決してないのです。

天界など幸福な次元に生まれ変わるのですが、どこに生まれ変わっても解脱の方へ引かれ、解脱の方へ進んでいきます。

ですから、仏教徒は誰でも「預流果に覚ること」を目指して頑張るのです。


(続きます)


・・・・・・・・・・・・・・・

法話:スマナサーラ長老

預流果に覚る条件『マハーナーマ・スッタ』

根本仏教講義 ➤ 目 次

編集/文:出村佳子

・・・・・・・・・・・・・・・