2012/09/07

最高の徳は解脱 7

幸福の見積書「損得勘定の智慧6」の続き


損を避ける方法

損をしない人生を送るためには、与えることをモットーにすることです。社会に対し、自分は何ができるだろうかと考えて、役に立つように生きるのです。そういう人は当然、社会に必要な人間になるでしょう。必要な人間なら、社会はその人を放っておきません。あなたがいなかったら困ります、と言って生かしてくれるのです。つまり自然に生かされるのです。そうなれば、もう他人と競争する必要もなくなりますし、敵もいなくなりますから、生きることはとても楽になります。ですから自己中心的な欲望を捨てて、皆が幸せでありますようにという慈しみの心を育ててください。慈しみがあれば、絶対に損をして苦しむことはありません。得だけの、徳に満ちた幸福な生き方ができるのです。

倒産しない秘訣

お金が欲しい、物が欲しい、地位が欲しい、名誉が欲しいなど、私たちはたいてい何かを求めながら、社会のなかで生きています。しかし人が何かを欲しいと思うとき、それはほとんど自己中心的であり、周りのことは考えていないものです。言い換えるなら、欲しいとばかり思っている人は、周りを軽蔑して侵害しているのです。何かを貰うときは誰から貰うのですか? 相手からでしょう。なのに、その相手を軽蔑していれば貰えるはずがありません。相手つまり社会は、次第にその人を疎んじるようになり、ついには捨ててしまうのです。捨てられたらもう何も貰えません。これで倒産するのです。
そこで倒産する前に、いまの生き方を転換しなければなりません。他人から貰おう、取ろうとするのをやめて、自分が持っているものを皆と分かち合おうという優しい心で生活するのです。そうすれば人生は絶対に倒産しません。これが倒産しない秘訣なのです。
最後に、忘れてはならない重要なポイントをお話いたしましょう。慈しみの心で、幸福に生きることだけが、私たちの最終目標ではありません。輪廻のなかで生存している限り、完全な幸福は得られないのです。生きている間中ずっと「しっかりしなくては」と気を張っていなければなりません。少しでも怠けたり、不注意になれば、足元の土台がガタガタと崩れて、幸福が壊れてしまうのです。これは大変危険なことです。
そこで私たちの最終目標を「心を清らかにして悟りを得ること」と設定しなければなりません。解脱こそが、最高の得であり、究極の幸福なのです。

終わりに

~在家者が豊かに生きるために~

●破滅行為とは?

仏教では、財産を失い、自己破滅につながる行為として、次の六つの項目を挙げています。

①酒や麻薬に溺れること。
酒を飲むと、人は酔っ払って自分の行動や言葉を管理できなくなります。
病気の原因にもなりますし、お金も浪費します。

②夜遅くまで町を遊び回ること。

③踊りや歌、祭りやパーティなどの集会に 熱中すること。

④賭け事をすること。
勝てば相手に怨まれますし、負ければ悔しくなります。

⑤道徳を守らない人や悪影響を与える人たち とつきあうこと。

⑥怠惰に耽ること。
世の中にはこのような破壊行為があることを理解して、損を免れたい人は、これらを避けるべきでしょう。

●財を管理する

在家者は、財の収入と支出によく気をつけて、それを管理するだけでなく、収入の一部を貯金することも、仏教は薦めています。人生では何が起こるかわかりません。事故でけがをしたり、病気で入院したり、災害に遭うかもしれません。このようなことが起こったときのために、あらかじめお金を貯めておくのです。万一、家族や自分に何か起きたときには、貯金をパッと使って借金しないようにするのです。仏教は借金には反対です。借金をしなくても、あるもので満足すればいいと考えているのです。また、貯金をするといっても、お金に執着して、やたらに貯めこむのはよくありません。あくまでも非常時の備えのために、収入の一部だけを貯金するのです。

●見返りを期待しない

「与えるだけ」という最高の徳があります。これは、見返りを求めずに、困っている人や苦しんでいる人を助けることです。たとえば難民キャンプに行って、そこで苦しんでいる人たちに、飲みものや食べもの、医療など、必要なものを施すことがあります。しかし、そこの人たちは何もお返しはくれません。それを承知の上で、なんの見返りも求めずに奉仕することは、素晴らしい模範的な行為です。

しかし私たちはたいてい、このような善い行為をあまりやりたがりません。電車のなかでお年寄りに席を譲るぐらいの些細な行為でも、恥ずかしがったり、躊躇したり、あるいは寝たふりをして無視したり――。ところが昨年、新潟県中越地震が起きたときには、大勢の人たちが「なんとかしなければ」と立ちあがり、義捐金を送ったり、現地でボランティア活動をしたりなど、それぞれが自分にできる形で援助をしました。忘れかけていた「助け合う心」や「思いやりの心」を取り戻したのでしょう。この心が、与えるだけの素晴らしい行為なのです。

しかし、寄付をしたり奉仕活動をする人のなかには「俺がやってあげたんだ」とか「自分は偉い」などと威張ったり高慢になる人が、案外いるものです。それでは心が汚れます。そこで仏教では、行為よりも心を清らかにすることを優先するように、と教えているのです。災害に遭って苦しんでいる人がいたら、正直に、真面目に、純粋な気持ちで「この人たちの苦しみがなくなりますように」「早く町が復旧しますように」と念じて、自分の心を清らかにするのです。病気で苦しんでいる人を見たら「病気が治りますように」「痛みが和らぎますように」などと念じるのです。繰り返し念じることによって、心が少しずつ清らかになってゆきます。自分のことしか考えなかった自己中心的な心が、相手を思いやる優しい心に成長してゆくのです。このように仏教では、何を行うときでも、心を清らかにすることが優先だと考えているのです。

それから経典では、出家者にお布施することも薦めています。出家者たちは世俗の欲望を捨て、経済活動をやめ、在家生活を放棄しています。だからといって怠けているのではありません。人間として最も重要な仕事である「心を清らかにすること」にチャレンジしているのです。お釈迦さまは、悟りを開かれてから涅槃に入るまでの四十五年間、人びとに「偉大なる真理」を説き続けられました。なぜそれができたのかといいますと、在家の方々のお布施があったからです。またお釈迦さまには、大勢の出家の弟子たちがいましたが、彼らを支えたのも在家の信者さんです。出家者が修行をするためには、体を維持しなければなりません。食飲物や身に纏うもの、住む処が必要です。その、生活に必要な衣食住薬を、在家の信者さんがお布施して支えていたのです。そのおかげで、偉大なるお釈迦さまの教えは、二千五百年以上経った今日でも、色褪せることなく、脈々と生き続けています。そして現代に生きる私たちも、当時、お釈迦さまが説かれた真理を実践して、幸福を得ることができるのです。ですから出家者にお布施をすることは、仏教そのものを守る大変尊い行為であり、その徳は、ものすごく高いのです。

Q&A

(Q) 「善行為をするときは人に知られないようにやりなさい」ということをよく聞きますし、他宗教でもそう教えているようですが、募金などをするときは匿名にしたほうがいいのでしょうか。仏教ではこの点ついてどう考えていますか。

(A) 「人に認められたい、褒められたい」という目的で物を与える場合、それは純粋な与える行為だとは言い難いのです。「私はこれだけのことをやったぞ」と威張って宣伝すると、それはただの商売になります。キリスト教の聖書にも「右手のしていることを左手に知られないようにしなさい」という有名な言葉がありますが、そちらでも商売感覚や宣伝機能を断ち切るために、内緒で与えなさいと教えているのです。
しかし仏教では「○○さんはこんな善いことをしました」と周りの人が宣伝することは認めています。そうすると、それを知った人たちも善い影響を受けて、善い行為をするようになるでしょう。それで「徳」が広がってゆくのです。もし誰も知らないなら「徳を積んだ、良かった」という自分だけの満足で終わりかねません。仏教は、自分だけでなく他人も幸福になりましょうという大きな世界ですから、他人の善行為を皆で分かち合い、喜ぶことも大切に考えているのです。
(完)
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アルボムッレ・スマナサーラ長老法話
文:出村佳子

2012/09/06

幸福の見積書 6

与えることの喜び「損得勘定の智慧5」の続き


何を、誰に、与えるか

人にものを与えるとき、私たちはさまざまなものを与えることができます。お金を持っている人は、それを必要としている人にあげられますし、知識のある人は、役に立つ情報や知識を教えることができます。電車の中で座席を譲ることも与えることですし、町に落ちているゴミを拾ったり掃除をしたりするなら、それはきれいな環境を与えたことになります。健康な人は献血をすることもできるでしょう。病気で体を動かせない人でも、面倒を見てくれる人に対して優しい言葉や気遣いの言葉をかけることができます。これらはすべて与えることなのです。ですから「与える」という善行為は、裕福な金持ちだけでなく、子供でも、お年寄りでも、健康な人でも、病気の人でも、誰でもできる行為なのです。
次に、それを「誰にあげるか」ということも考えなければなりません。自分が与えたいからといって、むやみに誰にでもあげていいというわけではないのです。たとえば砂糖がたっぷり入った甘いケーキを、糖尿病を患っている人にあげても仕方がないでしょう。相手にとっては大変な迷惑です。それでは与えたことになりません。ですから何を与えるにせよ、相手に必要なもの、役に立つものを与えるべきです。この点に、よく気をつけてください。

与えるものは最大に

それから与えるときには、自分にできる最大のものを与えることが大切です。物惜しみをしてはいけません。たとえば人に何か仕事を頼まれたとしましょう。頼まれるということは自分にできるということですから、そのときはいい加減で中途半端にやったり、手を抜いたりしないで、精一杯のことをやってあげるのです。いちばん良いのは、相手が期待している以上のことを行うことでしょう。そうすれば相手は「あなたに頼んで本当によかった!」と喜んで、満足してくれますし、自分も「役に立ててよかった」と充実感を感じることができるのです。
他方、得るものの方は「適量」でいいのです。最大ではありません。なぜなら「得る」ということは「欲」と同じで際限が無いからです。たとえば、いくらお金が欲しいですかと聞かれると、皆さんはどうお答えになりますか? お金が無いときは一万円でいいと言うかもしれません。しかし一万円が手に入ると、今度は二万円、五万円、十万円、百万円……と、どんどん膨らんでゆくのです。結局いくらあっても「もうちょっと欲しい」と望むことになるでしょう。欲にはきりがありません。止まることなくどんどん膨らんでゆきます。しかし不幸なことに、自分が欲するものをすべて獲得するのは不可能です。また、たとえ獲得しても、それは一時的なものですから存続しません。この「欲しいものが手に入らない」ということから生まれる不満感で、私たちはずっと苦しみ続けるのです。
そこで仏教は「得るものは適量」ということを教えています。無制限に「いくらでも欲しい」と考えるのではなく、「自分が幸せに生きるためにはこのぐらいで充分」という適量を計算し、知っておくことが大事なのです。

慢性的受難症

「受難症」という病気があります。現代医学では未だにこの病気を発見していませんが、お釈迦さまは今から約二千六百年も前に、すでに発見されていました。受難症とは仏教で言う「苦」のことです。なぜ私たちは苦しんでいるのかと言いますと、それは少量しか与えていないのに多くのものを得たいと期待しているからです。ろくに仕事をしていないのに「こんな安い給料ではやっていけない、給料をあげてくれ」とか「昇進させてほしい」と文句を言うでしょう。これは受難症です。こう言う人たちに逆にお聞きしたいのですが、あなたはどのぐらい仕事をしていますか、どのぐらい会社の利益に貢献しているのですか、と。自分は少ししか与えていないのに、会社から多くのものを貰おうと期待しても、それは所詮無理な話です。このような不平不満の性格では、一生、苦しむことになるでしょう。
そこで仏教では、俗世間の考え方とは正反対の「与えるものは最大に、得るものは適量を」ということを教えています。これを実践することによって受難症という苦しみが消滅し、満足という幸福が得られるのです。

足るを知る

ある日、お釈迦さまは出家者に、このように教えられました。「病気になったら比丘たちは薬として牛の尿を飲んでください。それが適量です、満足しなさい。もしどなたかに塗り薬や飲み薬を貰ったなら、あなたは余計に得をしているのです」と。出家者は病気になったとき、名医に診て欲しいとか、良く効く薬が欲しいなど、わがままを言ってはなりません。牛の尿で充分なのです。お釈迦さまがそう教えられたのですから、お釈迦さまに対して敬意を払って飲めば、それで元気になると思います。ただ、医学が発展した日本では化学薬品は山ほどあるのに、牛の尿は手に入らないという状況になっていますが―― 。
それから衣についてお釈迦さまは「その辺に捨ててある布切れの縫い合わせで充分です。それで満足しなさい。もし誰かが布を一枚くれたなら、あなたは大変な得をしています」と言われました。食べものについても「托鉢に出かけたとき、信者さんが残りものや要らないものを鉢に入れてくれたなら、それで充分です。もし食事をつくってくれたなら、あなたは大変な得をしているのです」と。住む処についても「枝や葉を屋根にして、木の下で寝ればそれで充分です。屋根のついた家に住むというのは大変なことです」とおっしゃいました。
要するに、お釈迦さまは「必要最小限の生活で満足しなさい」と教えられているのです。これは在家の方も同じです。私たちが「最小限」という限度を知らないかぎり、受難症という病気は治りません。いくらあっても「足りない」と不満を感じ、苦しむことになるのです。
そこで、最小限のもので満足できるように心を育てたなら、他人からほんの少し何かを貰っただけで、楽しい気分になれるのです。不平不満もたちまち吹っ飛んでしまいます。これで人生を楽に過ごすことができるのです

正しい見積書と誤算

幸福の見積書

さて、これまで述べてきたことをまとめながら「幸福の見積書」を作成してみましょう。ポイントは、自分が貰うことでなく、与えることを念頭に置いておくことです。先ず「自分は何を与えることができるか」と考えてください。物でも、お金でも、才能でも、労力による奉仕でも、何でもよいのです。自分が持っているものや出来ることなど、与えられるものを見つけてください。そして次に、それを必要としている人に与えるのです。でたらめに誰にでもあげればいいというわけではありません。相手を選択すべきです。これは誰にとって最大に有効か、役に立つか、ということを考えて、そちらに与えるのです。そして、得るものの方は「適量」というところで満足するのです。これで幸福の見積書は完成です。あとはこれを実践すればいいのです。見積書を作っただけでは幸福になれません。実践を通して初めて私たちは幸福に生きることができるのです。
反対に、幸福の見積書とは逆の行為をしていると、誤算が生じ、苦しみの人生を送ることになります。つまり自分からは何も与えない、貰うことばかり考える、要らないという人に対して一方的に、強引に押しつける、得ているものに満足せず「足りない、足りない」と言って不平不満を抱くことです。

豊かさの悩み

「幸福の見積書」に従って生活していますと、たいていの場合、自分が思っているよりも多くのものが入ってくるものです。つまり仏教的に生きているなら「私は一万円でよかったのに五万円も貰ってしまった、どうしようか」とか「こんなにくれなくてもいいのに」と、貰った給料の一部を返したくなるような、そんな気持ちになるのです。皆さんはこのような豊かさの悩みを味わったことがありますか? 普通は「残業までしたのに一万円しか貰えなかった、やってられない」などと愚痴をこぼすでしょう。これは俗世間の価値観で生きているからです。仏教は、このような不満の状態を逆転させて、満足だけの生き方を教えているのです。そのためには、先ほど作成した「幸福の見積書」を実践することです。
(続きます)
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アルボムッレ・スマナサーラ長老法話
文:出村佳子

2012/09/05

与えることの喜び 5

仏教の会計学「損得勘定の智慧 4」の続き


到達点は「与えるだけ」


前回説明した五つの勘定の仕方のうち、五番目の「与えるだけ」の道について少々付け加えておきたいと思います。この与えるだけという生き方は悟った人の生き方だから自分には関係がない、といって無視してはいけません。これは私たち誰もが到達すべき最終点であり、そこに行き着くまで努力しなければならないのです。仏教では「与えることは善行為の始まりである」と説いています。善行為をすれば因果法則によって必ず幸福になれるのです。ですから自分の心にある「欲しい、貰いたい」という暗くて重い欲望を少しずつ減らしてゆき「与える」ということを実践してみてください。心は次第に明るく軽やかになるでしょう。これが幸福に生きるための正しい勘定の方法なのです。

価値はどうやって成り立つか?


何かを与えるとき「価値」はどのようにして決まるのでしょうか? 与える人が決めるのですか、それとも受ける人が決めるのですか? それは受ける側で決まるのです。たとえば母親が自分のネックレスを娘にあげるとしましょう。「これは結婚のときにプレゼントされた大事なネックレスで、大変高価なものです」と、自分で価値を入れても意味がありません。貰う側の娘が価値を入れるのです。「このネックレスはクラシックで、おしゃれだ。すごく気に入った」と喜ぶなら、それには価値があるということになりますし、逆に「これは太くてダサい。誰もこんなものは付けないよ」と喜ばないなら、それには価値がないということになるのです。
また、絵画や陶芸などの芸術品を売買するときにはオークションを行うことがあります。そこでは買う側が価値を入れて値段を決めるのであって、作品自体には何の価値もありません。たとえば、ある絵画を見てAさんは「百万円で買う」と言うかもしれませんし、Bさんは「千円でも買わない」と言うかもしれません。このように価値というものは買う側、受ける側で成り立つのです。いくら素晴らしいものでも高価なものでも、貰う人が必要としなかったり興味を示さないなら、それには何の価値もないのです。

板切れ一枚の価値


普段は何の役にも立たない、価値のない板切れでも、場合によっては巨大な価値を持つこともあります。お釈迦さまの前世物語として有名な「ジャータカ」には次のようなエピソードがあります。ご紹介いたしましょう。

菩薩は、ある商人として生まれました。大金を儲けなくてはならないということで、知人といっしょに舟に乗って商売に出かけました。その途中、ひどい嵐に出会い遭難してしまったのです。頭が鋭い菩薩は舟の中にある荷物をサッサと捨てて、舟から板を剥ぎ取り、それを持って海に飛び込みました。そして板の上に身体を乗せて水の流れに流されていたのです。そうすると、もう一人の男が海に流されているのが見えました。男は何もつかまるものを持っていません。菩薩は「この人はもうすぐ溺れて死ぬだろう。俗世間で儲けようとすると、こういう災難にも遭うのだ。私は修行中の身である。商売をしているのは生活するためであって、私の本職は波羅蜜を完成して悟ることだ。今は自分の波羅蜜を完成するチャンスだ。この人を助けよう。しかしこの板切れ一枚に二人は乗れない。板をあげれば自分が溺れて死んでしまう。この人が今までに何か私を助けてくれたことがあれば、それを理由に、この板をあげられるのだが」と考えて、菩薩は過去を振り返ってみました。しかしこの男は何も菩薩にしてくれたことがないのです。ただ、一つだけこのような出来事を思い出しました。

以前、この男が旅に出かけたとき、菩薩もいっしょに行きました。男は三人分ほどの弁当を持っていましたが、菩薩は突然出かけたので何も持っていませんでした。しばらく歩いて食事の時間になると、男は自分の弁当を開けて一人でパクパクと食べはじめました。菩薩が弁当を持っていないのを知っているにもかかわらず、何も分けてあげません。一人分だけ食べて残りはとっておき「では、行くぞ」と歩きはじめるのです。普通なら弁当を持っている人が持っていない人に分けてあげるでしょう。しかしこの男は菩薩に何もあげません。しばらく歩いて、また食事の時間になると、そのときも自分の分だけ食べて残りはとっておくのです。菩薩は喉がカラカラに渇き、腹も空いていました。ところで、インドでは食後に口直しとして小さな葉っぱを噛む習慣があります。葉っぱに何かを付けて噛むと、口の中がスッキリして爽やかな気分になるのです。脳にも信号が行きますから頭もしっかりします。そこで菩薩は、葉っぱはお金がかかるものではないから「その葉っぱを一枚くれませんか」とお願いしました。すると男は「葉っぱ一枚」と嫌な顔をして、一枚あげるのではなく、葉っぱを半分に切ってそれをあげたのです。男があげたのは葉っぱの半分だけ。そのぐらいケチでわがままな人だったのです。

そこで、いま海で遭難しているときに、菩薩はこのことを思い出しました。「この人は以前、私に葉っぱの半分をくれたことがある」と。そして男に「あなたはろくに泳ぐことでもできないようですから、やがて溺れて死ぬでしょう。私は過去、あなたにお世話になったことがあります。以前、いっしょに商売に出かけたとき、あなたは葉っぱの半分を私にくれました。ですから私は恩返しをしなくてはなりません。これを使ってください」と言って、自分が乗っていた板切れを男に差し出したのです。

このような崇高な行為ができるのは菩薩であって、一般の私たちにはとうていできることではありません。普通、板切れというものには何の価値もありませんが、このエピソードのように、海の中で遭難しているときの価値はどうかと考えますと、それは命と同等の価値があるのです。正しく計算するなら、男は一円もしない板切れを貰ったのではありません。「命」を貰ったのです。

このように価値というものは、貰う側で成り立つのであり、時と場合によって大きく異なってくるのです。

個人的な話しになりますが、ときどきスリランカから「お金を送ってほしい」という手紙が私のところに届きます。ある人は「家を直したいがお金がないから十万円ほど送ってくれないか」と言うのです。家を直したいというのは、ただ格好つけて贅沢に暮らすためのものでしょう。その人に十万円送ってあげたとしてもほとんど価値がないと思います。だってわざわざお金をかけて家を直さなくても、今のままで十分に生活できるのですから。また、ある人は「自分は学生で勉強しているが授業料が払えなくなってしまった」とか「教科書を買いたいから一万円送ってほしい」と書いてあるとします。その場合、私はすぐにお金を送ってあげるのです。なぜかというと学生にとって勉強や本はすごく役に立つものです。知識を学び、技術を習得し、仕事を得て、一生食べていけるようになったなら、その子は一生自立して暮らせます。それには一生分の価値があるのです。このように、価値というものは受ける側の使う目的によっても異なるのです。

与える喜びを味わう


私たちは人に何かモノをあげた後に「損した」とか「もったいない」という惜しい気持ちが生まれることがあります。なぜこのような感情が生まれるのかというと、たとえば自分の部屋にテレビがあるとしましょう。でも仕事が忙しくてなかなか見る暇がありません。そこで友だちが「そのテレビをくれないか。代わりにソファーをあげるから」と言いました。友だちがすごく欲しがっているので「しょうがないな、持って行け」と言います。でも後になって「ああ、損した」と後悔する可能性もあります。ソファーは別にあってもなくてもいいものですが、テレビは毎日見なくても、ときどきは見ますから、自分にはまだ必要なものなのです。この「まだ自分に必要」というときに「損した」という感情が出てくるのです。

しかし、価値というものは受ける側で成り立つのですから、実際、与える側には損も得も関係ありません。それなのに、いったん手放したものに執着して悔やんだりすると、それは悩みの種になって苦しみが増えるだけです。友だちが喜んでいるなら、それでよいのではないでしょうか。世の中は「与えて得る」というギブ・アンド・テイクのシステムで成り立っているのですから、何らかの形で自分が与えなくてはならないのです。それならば、悔やんだり悩んだりしないで「人の役に立ってよかった」と与えた喜びを味わい、充実感を感じながら生きる方が「得」なのではないでしょうか。
(続きます)
アルボムッレ・スマナサーラ長老法話
文:出村佳子

充実感こそ最高の財産


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月例講演会(浅草かやの木会館)での講義を編集しました。

2012/09/04

仏教の会計学 4



前回は、仏教とは人生を勘定する学問、つまり「人生の会計学」であり、これを学ぶことによって私たちは財政的にも精神的にも豊かに生きることができる、というところまでお話し致しました。今回から具体的にその内容を学んでみましょう。概要は次のとおりです。

一.何を勘定するか
二.勘定の仕方
三.正しい見積書と誤算
四.損を避ける方法
五.倒産しないための秘訣

一.何を勘定するか
勘定するといっても私たちは何を勘定すればよいのでしょうか。大きく分けると四つあります。

・物(金銭、財産、物品など) 

まず、物です。これは皆さん日常生活の中で普通にやっていることでしょう。たとえば電化製品を買うなら「A店よりB店の方が安くてサービスがいいからB店で買おう」とか、海外旅行に行くなら「正月は旅費が高いからオフシーズンに行こう」というように、物やお金の損得を勘定することです。これはやらなければ損をします。

・知識・情報 

次に知識と情報です。間違った情報や不必要な知識を入れると、人は堕落します。現代社会では、テレビ、新聞、ラジオ、インターネットなどを通して、誰でも簡単に情報を入手することが可能になりました。しかしその膨大な情報を、何の勘定もせずにそのまま鵜呑みにするのは大変危険なことです。マスコミはありのままの事実を客観的に報道するのではなく、政治的、経済的意図に影響されて、極端に歪曲したデータを流したり、一部の情報をカットすることもあるからです。だからといってマスコミだけが悪いわけではありません。情報を受ける私たちも悪いのです。つまり外から入ってきた情報を無批判で受け入れるという、無知で怠慢な私たちの態度にも問題があるということです。

そこでお釈迦さまは「各自が、入ってくる情報を正しく勘定しなさい」と教えられました。自分の目や耳に入ってくる情報は「正しいものか、正しくないものか」「真面目に考慮すべきものか、無視すべきものか」を見分けなさいと。自分にとって有害な情報は受け入れないようにし、有益な情報なら取り入れて、よく学ぶことが大切なのです。


知識についても、何でも知ればいいというわけではありません。知ってはいけない知識もあります。仏教では、毒や武器を製造したり商売にする知識は断固として禁止しています。なぜなら、この種の知識は人の精神をおかしくさせ、他人も自分も害することになりますから。

・人間関係 

次に、人間関係です。仏教では人間関係について厳しく言っています。人とつきあうとき、相手は誰でもいいというわけではありません。相手が道徳を守らない愚か者だったら、その人とは距離を置いてつきあうか、離れた方がいいでしょう。なぜなら愚か者と親しくすると、簡単に自分も堕落してしまうからです。他方、智慧があって道徳的な人とは、しっかり仲良くすべきです。

世の中には「私は人づきあいが広い」とか「友だちが大勢いる」と自慢している人がいますが、重要なのはつきあう人の数の多さではなく、相手がどのような人かということです。道徳的で立派な人がいるなら、つきあう人はその人一人で十分なのです。

・人格の向上・進化に必要な道徳と真理

最後は、人格の向上・進化です。私たちは日々の生活の中で「善い人間になる」ように常に心を向上させ、進化させなくてはなりません。そのためには「これをやると進化する」「これをやると退化する」というように、自分の行動を勘定しなければならないのです。その基本となるものが道徳です。道徳を守ると人格はどんどん向上しますし、守らなければ堕落していきます。

それから、真理を知ると人は進化して悟れるのです。最終的に私たちは、悟りを得るところまで勘定しなくてはならないのです。

勘定の仕方

さて、何を勘定すればいいかということはこれでおわかりになったと思います。それから、もう一つ考えておかなければならないポイントがあります。皆さんはこの四つの項目の中で何を優先して生活していますか? お金ですか? 人づきあいですか? 情報・知識ですか? 道徳・真理ですか? どれも生きる上では必要なものですが、何を優先すべきか、何を優先すれば幸福になれるか、という優先順を知っておくことも大切です。
それでは先ず、私たちが普段からやっている俗世間の優先順を見てみましょう。

・「俗世間」の優先順
1、物
2、人間関係
3、知識・情報
4、人格の向上・進化(道徳と真理)


私たちが一番重要視しているものは、物です。その中でも特に、食べることと飲むことを大事にしています。飲食をしなければ生命を維持することができませんから、これは当然のことでしょう。次は、家族や友人、会社などでの人間関係です。そしてその次に、仕事をするためや教養を身につけるために、知識や情報を必要とします。そして最後に来るのが、道徳・真理です。私たちは実際のところ、道徳や真理を大事にしていません。嘘をついたり、帳簿をごまかしたり、不正を働いてまでも、より多くの金銭や地位、権力などを獲得しようとしているのです。欲望にあやつられて、道徳は後回しにするか、あるいはまったく無関心の状態で生きています。これでは幸福になれるはずがありません。では、仏教はどのような優先順をつけているのでしょうか。

・「仏教」の優先順

1、人格の向上・進化(道徳と真理)
2、人間関係
3、知識・情報
4、物

私たちが幸福になるために最優先すべきものは、人格の向上と進化です。皆さんはお金や物の勘定には慣れているでしょうが、それよりも大事なのは、人格者になるために、善い立派な人間になるために、道徳や真理を勘定することなのです。その次に、人間関係です。悪いグループに入らないで、善いグループに入るように気をつけなければなりません。それから知識です。知識があるのは善いことですが、それほど高度な知識がなくても生きていられるでしょう。そして最後に、お金、家、車、装飾品などの物です。

仏教では、このような優先順をつけています。もし幸福を望むなら、道徳や真理を最優先にする、この仏教的な順番を学ぶべきでしょう。

得ること・与えること


次に、「勘定の仕方」について勉強してみましょう。これは次の五つのタイプに分けられます。


1、得たから与える
2、得るために与える
3、得られるなら与える
4、要らないから与える
5、与える

一番目の「得たから与える」というのは、人に何か貰ったからお返しします、という世間任せ的な生き方です。これは周りの人がいつでも自分のことを心配して、必要なものを与えてくれなければなりませんから、そういう人がいない社会では生活できないということになります。
二番目の「得るために与える」というのは狡賢いでしょうし、三番目の「得られるなら与える」は態度が大きい。四番目の「要らないから与える」は、世界をゴミ箱のように思っているのです。
そして五番目の「与える」だけというのは、賢者の世界です。賢者には「得たい」という気持ちがありません。「与える」ことしか考えていないのです。

そこで、はじめの四つはどれも「自分が何かを貰いたい」という気持ちが先立っていることがおわかりになると思います。しかし「貰いたい」という目的だけで生きていると、数限りない苦しみが生まれ、不幸を招くことになります。ですからこれらの四つは良い方法だとは言えません。それから五番目の「与える」だけの生き方を、いきなりやりなさいと言われても、私たちはギブ・アンド・テイクの世界で生きているのですから、それは無理な話です。では仏教はどのような方法を薦めているのでしょうか。

与えてから得る


二番目の「得るために与える」を与えてから得るというやり方に改良するのです。つまり、人や社会から何か「得よう、貰おう」とするのではなく、先に自分から「与える」のです。これが間違いのない正しい方法なのです。
(続きます)
アルボムッレ・スマナサーラ長老法話
文:出村佳子

損得勘定の智慧 スマナサーラ長老法話 文責 出村佳子


2012/09/03

人生の会計士 3

人生はモノの流れの交差点「損得勘定の智慧 2」の続き


愚者は垂れ流しの生き方をする

「愚者」は損得を勘定することも、自分の感情をコントロールすることもできません。


結果として、いつでも損をする羽目になります。前回お話ししました物々交換の例で、着物を持っているAさんは、Bさんの大根が欲しいのですが、着物と大根をそのまま交換するのではAさんがちょっと損をするでしょう。そこで少し頭を働かせて工夫するのです。たとえば隣にいるCさんがリンゴと草履を持っているとします。AさんはCさんに交渉して、CさんのリンゴとBさんの大根を交換してもらうのです。リンゴと大根の価値はほぼ等しいですから、BさんもCさんも納得して物々交換が成立するでしょう。そしてその後、Aさんは自分の着物と、Cさんの大根・草履を交換するのです。これでAさんは損をしないですみます。このようにちょっと頭を働かせて、損の無いように生活することは決して悪いことではありません。でも、勘定をないがしろにする愚か者には、このような工夫ができないのです。


それから、生きる上では新しいこと(ただし善いこと)に挑戦する勇気も欠かせないものです。ですが愚か者は「失敗するのが怖い」とか「面倒臭いからやりたくない」といってチャレンジするのを億劫がります。しかしそれではいっこうに「得」することができません。なぜなら新しいことに挑戦することによって、私たちの心は徐々に進歩してゆき、何らかの「得」が得られるのですから。

また「損するか、得するか」とはっきり分からない場合もあるでしょう。そんなとき、わずかにでも善いことがあると分かったら、たとえ今までやったことがないにしても、思い切って「挑戦してみる」ことが大事なのです。

ときどき「私は損得なんか気にしない。気の向くまま、風の吹くままに生きて行く」と言う人がいます。このような放浪的な人のことを「格好いい」とか「立派だ」と称賛する人も少なくありません。本人もきっとそう思っているでしょう。しかしこれは大変な無知の生き方であり、正真正銘の愚か者の生き方なのです。すべてを運命に任せている愚か者は、自分で努力しようとしませんから、何の進歩も得られずに堕落するばかりです。

そうではなく「これをすれば得をする、これをすれば損をする、これは善いことだからやる、これは悪いことだからやらない」とはっきり計算して生きるべきなのです。

賢者は損得を乗り越える


「賢者」とは悟った人のことです。賢者は損得に対してどのようなアプローチをしているのでしょうか。


完全に悟りを開いた賢者は損得には囚われません。だからといって愚かな生き方もしません。損をしても得をしても「自分は単なる交差点だ」と法則を正しく理解して、落ち着いているのです。


何が入っても何が出て行っても――宝石が出入りしても、牛馬の肥料が出入りしても、「私とはモノが出入りする交差点」と考えて冷静にいるのです。

このように賢者は、損をしてもそれに悩みませんし、得をしてもそれに惑わされません。一
切のものに執着しないで清らかな心で生き、完全なる自由を得ています。
損得は必ず勘定しなくてはならないものですが、それに引っ掛かって舞い上がったり落ち込んだりすると、心の自由が消えてしまうのです。
何にも囚われることのない賢者だけが、損得を乗り越えて、自由な心で、勝利者として生きることができるのです。

正しい価値判断能力を養う


賢者の生き方はひとまず脇に置いておきましょう。


いきなり損得を乗り越えた賢者の生き方に飛ぶのではなく、先ず、損得を正しく勘定する「知者の生き方」を学んだ方が皆様の役に立つと思います。知者の生き方については前回お話し致しましたが、ここでもう少しポイントを付け加えておきましょう。


家庭の主婦が家計簿を付けて金銭を管理しているように、私たちは誰でも「人生の家計簿」を付ける必要があります。金銭だけでなく、知識、情報、道徳、人間関係を含めた人生全体の家計簿を付けなければなりません。しかし私たちはお金や物を勘定することに関しては慣れていますが、それ以外のものについてはほとんど勘定していません。この、勘定をせずに無知でいることから、さまざまな問題が発生しているのです。

たとえば知識について考えてみましょう。一般的に、知識は良いものとみなされています。しかし知識には私たちの役に立つものと有害なものとがあるのです。役に立つ知識とは、仕事をするために必要な知識とか仏教の知識などです。これらは私たちが生きる上で大変役に立つものですから、たとえ勉強が嫌いでも頑張って学んだ方が良いでしょう。他方、有害な知識とは、武器や爆弾を製造するなど生命に害を与える知識です。これは決して学んではなりません。学ぶぐらいならいいのではないかと思われるかもしれませんが、知識を入れるだけでも危険なのです。なぜなら、何かを知ればそれを作りたくなり、作って完成したら実際に使用してみたくなるからです。これが人間の心というものです。ですから大切なことは、どの知識を得るべきか、あるいは避けるべきか、何が役に立ち、何が役に立たないか、を勘定する智慧を身に付けることです。あらゆるものに対して損得を勘定する訓練をして、価値判断能力を養うことが、幸福に生きるために欠かせないことなのです。

そしてそれには「注意力」が必要です。たとえば子供がいたずらをすると、母親はたいてい「そんなことをしたらダメでしょう!」といきなり大声で怒鳴るでしょう。それで子供はいたずらをやめるでしょうか? 

そのときは驚いて一時的にやめるかもしれません。でもすぐに次のいたずらが始まるのです。
そして、また母親が怒鳴る――。
結局、子供の行動に振り回されて怒鳴っている母親の方が疲れてしまうのです。

そこで、子供を叱る前にちょっと立ち止まって、「どう言えば子供はいたずらをやめるだろうか」と考えてみるのです。ただ感情的に言いたい放題のことを言うのではなく「この言葉は子供にとってプラスになるか、マイナスになるか」と考えてみます。そしてプラスになることだけを言うのです。このような注意力があれば、損をして苦しむことはないでしょう。

ところで、どこのスーパーに行っても一つや二つ「安売り」などと表示された札を見かけるものです。その札を見たとたん「安い、得だ」と勘違いして、いきなり飛びついて買ってしまう人がいます。たとえば「十個まとめて買うと二〇%引き」とあるとします。確かに単品を通常の値段で買うよりも得するでしょう。しかし問題は、その品物が十個も自分に必要かということです。もしそれが食べものなら消費期限があるはずです。せっかく「安い」と思って買ったのに、結局、近所の奥さんたちに配る羽目になります。人に分けてあげるのは悪いことではありませんが、特売で安く買ったものを消費期限が切れるからといって捨てるようにあげても仕方ないでしょう。受ける側も感謝して受け取ることはないのです。ですから、総合的に見ると大変な損をしていることになるのです。

もし人に何かあげたければ、価値のあるものを買って「これを差し上げます」と大事にあげた方がいいのです。そうすれば相手も「私のことをよく思ってくれている」と気持ちよく受け取ってくれますから。

何も考えずに感情でパーっと行動しても何の得もありません。このような理由で、私たちは「注意深く生きる」ということが大切なのです。

人生の会計士 


私たちは自分の人生の会計士にならなくてはなりません。
社会には「会計士」と呼ばれる職業があります。会社の金銭や物品の出入りを監督して検査する人のことです。残念ながら、このように個人の人生を検査・監督してくれるような会社はありません。ですから自分の人生は自分で管理しなければならないのです。「あなたの代わりに私が生きてあげます」とか「あなたの代わりに私が勉強してあげます」というのは絶対に成り立ちません。自分の人生を他人に任せることはできないのです。自分が智慧を身に付けて、自分で自分の人生を管理する以外に方法はないのです。


そして、仏教とは自分の人生を勘定する学問、つまり「人生の会計学」です。これを学ぶことによって、私たちは財政的にも精神的にも倒産することなく、豊かな人生を生きることができるのです。
(続きます)
アルボムッレ・スマナサーラ長老法話
文:出村佳子

2012/09/02

人生はモノの流れの交差点 2

損のない生き方「損得勘定の智慧 1」の続き


損得を勘定する人は「得」をする



自分の損得を勘定する人は、相手の損得も勘定することができます。
ですからその人は、相手の気持ちが理解できる、自我を張らない善い人間になります。
それから、財・知・人の三つの分野で得をするのです。財というのは財産や金銭、物のこと。知とは知識のこと。人とは人間関係のことです。損得を勘定する人は「どうすれば役に立つか」とか、「自分や皆にとって何が得か」ということを常に考えて行動しますから、その生き方は有効的で友好的なものになり、他人にも好かれ、人気者になります。他人の甘言に騙されて悔しい思いをすることもありません。

世の中には「悪い行為をすれば損をするし、善い行為をすれば得をする」という因果の法則があります。損得を勘定する人は、この法則をよく理解して、人を助けたり親切にしたりなど、常に善い行為を実践しようと努めます。結果として、その人の人生は人格が向上する方向へと赴き「得」に溢れる人生になるのです。


損得を表すさまざまな言葉



さて次に、言葉の面から損得について考えてみましょう。
日常生活の中では「損・得」「出る・入る」を言い表すために多くの言葉が使われています。
たとえば「出る」という言葉を表現するのに日本語にはさまざまな言葉があります。「寄付する」ことも「出る」という意味なら「攻撃する」ことも「出る」という意味です。しかし同じ「出る」ということを表していても意味が全く異なるのです。「寄付する」には善い評価が含まれますが「攻撃する」には悪い評価が含まれています。このように言葉には人の感情や評価が含まれているのです。他にどのような単語があるのかいくつか挙げてみましょう。

出て行くもの (output)



中立的な語
感情や評価がほとんど含まれない中間的な語――送る、話す、放す、渡す、あげる、送信する、提供する、発表するなど。


積極的な語 
「善いことした」と胸を張って評価している語――布施する、寄付する、慈しむ、援助する、支援する、応援する、助言するなど。


消極的な語 
「悪い」という否定的な評価が含まれている語――殴る、蹴る、攻撃する、押し付ける、撒き散らす、放言する、垂れ流す、漏洩するなど。


入って来るもの (input)


中立的な語
得る、貰う、聞く、飲む、食べる、吸う、取り入れる、集める、受信するなど。


積極的な語
習得する、受理する、頂戴する、歓迎する、受賞するなど。


消極的な語
奪う、盗む、貪る、搾取する、横領する、掻き集めるなど。



ここに挙げた語はほんの一例です。私たちは日常生活の中で常に「出る・入る」の生き方をしていますから、他にもたくさんの言葉があります。それは私たちが感情で評価して区別している分だけあるのです。


人生は流れの交差点



これから説明するポイントは少々難しいかもしれません。法則についての話しです。
「生きる」ということは、モノを「与えて得る」という交換の連続なのです。私たちはこの世に生まれた瞬間から死ぬ瞬間まで、入る(input)と出る(output)の流れの中で生きています。外からモノを入れて自分の内から何かを出す。酸素を入れて二酸化炭素を出す、ご飯を食べて栄養を摂取し、体力などで出す、この流れの連続です。一部が入り一部が出る、この交差点に私たちは「自分」と名付けているのです。ですから「自分」とは、何の実体もない、何の存在価値もない、ただモノが出入りするだけの一時的な「交差点」にすぎないのです。



それなのに私たちは「自分がいる、私は偉い」と勘違いしています。ちょっと高価なモノを与えると「私は偉い、他の人とは違う」と自慢する気持ちが生まれてくるでしょう。たとえば頭の中でいろいろ想像を巡らせて小説を執筆し、それがベストセラーになって有名な賞を受賞したとします。そのこと自体には何の問題もありません。問題なのは「私は○○賞を受賞した立派な人間だ。偉い人だ」と、とんでもない妄想を働かせることなのです。仏教から見れば、その作家はあちらこちらから情報を掻き集め、それに少々手を加えて、新作と称して外に出しただけなのです。作家だけでなく、芸術家も、科学者も、政治家も、どんな人も、このように「入れる・出す」の機能しかやっていません。この機能が「生きる」ということなのです。



これはちょうど「物々交換をする場所」のようなものです。昔の人たちは木の下や広場、道路の脇などで、各々が所有するモノを持ち寄って、物々交換をして生活を営んでいました。その場所は、単に「モノを交換する場所」であって、特別に「立派な場所」ではなかったのです。「私」というものも、いろいろなモノが行き来し、出入りする場所にすぎません。もし高価なモノを持っているなら「あちらに行けば良いモノが手に入る」と人々の間でちょっと評判が良くなるぐらいのことで、その場所自体には何の価値もないのです。



このように「私」または「存在」というものは、さまざまなモノが行き来する交差点であって、そこに実体はありません。ですから「得した」といって舞い上がることもありませんし「損した」といって落ち込む必要もないのです。しかし私たちはいつでも損得に惑わされて苦しんでいます。でも考えてみてください。「得した」といって何に喜ぶのでしょうか? あるいは「損した」といって何に落ち込むのでしょうか? 自分というものは単なる交差点にすぎないのですから、損得に左右されて一喜一憂し、心をかき乱すべきではないのです。



たとえば、ある物々交換の場所に、Aさんは着物を、Bさんは大根を持ってきたとします。二人は互いに自分の持っているモノを交換しました。後になってAさんは「私の大事な着物を大根なんかと交換して損した」と後悔するかもしれません。確かに着物の方が大根よりも高価でしょう。でも悔しがる必要はないのです。なぜなら自分というものは単なる交差点にすぎないのですから。着物が出て行き大根が入って来たといっても、交差点にとっては損も得も関係ないのです。何度も言いますが「私」というものは物々交換の場所なのです。この因果法則の真理を理解できれば、私たち穏やかで気楽に生きることができるでしょう。



しかし損得は無視できない


これまで、自分というものは単なる交差点だから何が出入りしても冷静に落ち着いていましょうという話しをしてきましたが、これを実践できるのは法則を理解した賢者のみです。実際のところ私たちは無知ですから、そのように落ち着いていることはできません。では、どうすれば良いのでしょうか?


知者は正しく損得勘定をする


「知者」というのは私たち、つまり普通の人間のことです。私たちは先ず理性を育て、ものごとの損得を正しく勘定することを学ばなければなりません。損得というと私たちはすぐに金銭や物品のことを思い浮かべますが、それだけでは足りません。知識、情報、技術、人間関係、道徳、人格などいろいろあります。あらゆる損得を考慮して、勘定しなければならないのです。たとえば情報を得るときには、何でも鵜呑みにするのではなく、「これは良い情報か、悪い情報か」「役に立つか、役に立たないか」と計算してみるのです。人と付き合うときも「この人は道徳的な人か、そうではないか」「この人と付き合うと損するか、得するか」というように、日々の生活の一つ一つの損得を理性的に勘定することが大切なのです。これができれば「損」をして落ち込んだり苦しんだりすることはありません。

それから「得」をしたいからといって、他人の財産を盗んだり、奪ったり、騙し取ったりと、不正的な手段を使ってはいけません。他人に迷惑をかければ必ず自分が損をします。自分の感情をコントロールして、他人にも自分にも損害を与えないように気を付けなければならないのです。

また、自分の知らないことは、真理を知っている賢者に聞いてアドバイスを受けることも大切です。
このように理性を持って損得を勘定するなら、損の無い有意義な人生を送ることができるでしょう。


(続きます)


アルボムッレ・スマナサーラ長老法話
文:出村佳子


2012/09/01

『マインドフルネス』気づきの瞑想


マインドフルネスー気づきの瞑想


本書が出版されてから 20年が経ちました(現在では30年近く)。

そのあいだに 「気づき(マインドフルネス)」が、現代の社会や文化のあらゆる領域――教育・心理療法・芸術・ヨーガ、医療・急速に進歩する脳科学などの分野――にますます影響を与えています。

そして、ますます多くの方がさまざまな目的で――ストレス軽減や心身の健康増進、円滑な人間関係の構築、よりよい仕事のためなど――人生をより有意義にすごすために「気づき(マインドフルネス)」を求めています。

その目的がいかなるものであれ、本書をお読みなる皆さんが幸せへの道を見いだせることを心より願っております。
―バンテ・H・グナラタナ

◆世界で読みつがれるヴィパッサナー瞑想の最良入門書


マインドフルネス(ヴィパッサナー、気づきの瞑想)の実践入門書として、米国で出版以来20年以上にわたり読みつがれ、世界15カ国で翻訳されているロングセラー。

仏教の知識がなくともわかる平易な言葉で、ヴィパッサナーを実践するために必要な情報を余すところなく伝え、確かな評価を得ている。

ラリー・ローゼンバーグ(『呼吸による癒し』著者)や、ジョン・カバット・ジン(マサチューセッツ大学医学部名誉教授)など多くの瞑想指導者、医師、実践者が絶賛してやまない名著。本書は、2011年に発行された最新エディションの日本語版である。


◆帯文(アルボムッレ・スマナサーラ長老より)

世界の瞑想指導者たちのトップリーダーが語る、
気づきの実践方法です。
西洋人に語りかけたこの本は、瞑想に興味のある方々に刺激を与えるに違いありません。
著者は気づきの実践について一流の研究者でもあります。

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マインドフルネス 気づきの瞑想 グナラタナ著 出村佳子訳
バンテ・H・グナラタナ 出村佳子訳
サンガ 2012-08-23
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